【Vol.47】桐朋との繋がり -27期 安田 尚民さん 前編-
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)
髙田:
今日は27期の安田尚民さんにお話を聞きたいと思います。
まず自己紹介をお願いいたします。
安田さん:
桐朋小学校27期卒業の安田尚民(ひさたみ)と申します。一つ上の兄、二つ下の妹、それに母親も桐朋出身なので、いわゆる桐朋一家でした。幼稚園から高校まで桐朋でお世話になりました。
髙田:
今のご職業を教えてください。
安田さん:
八王子市立南大沢小学校で校長をしています。
髙田:
いつぐから校長先生をされているのですか?
安田さん:
昨年の4月からです。
髙田:
それでは小学校時代の話からお聞かせいただきたいと思います。どんなお子さまでしたか。
安田さん:
絵に描いたような、元気だけが取り柄の小学生でした。今日はアルバムを持ってきたんですが、写真を見ると上半身裸とか裸足とかそんなのばかりで、周りのみんながそうだった訳ではないんですけど、私はそんな感じでした。
髙田:
桐朋小学校あるあるですね。
今までインタビューをした方にも裸の方結構いらっしゃいました。
安田さん:
そうなんですね。
最初は多分元気で本当に薄着だったのだと思うんでが、その内友達のお母さんとかに、「安田君はいつも元気でいいわよね。」などと言われるようになって、だんだん引くに引けなくなってきてしまったんです。だから学校に行って裸足で、裸なんだけど、冬はストーブにお尻くっつけてるみたいな、そういう感じでした。
これは、誕生会の時の写真なんです。私の誕生日は11月の末なんですけど、本当に裸足、半裸なんですよ(笑)
トイレに行くのも友達に上履きを借りたりして、外も裸足だったのでどうやって中に入ったんだろうって思います。
髙田:
本当だ!記憶はないんですか。
安田さん:
記憶はあんまりないです。
髙田:
裸足、裸で何をして遊んでいたのですか。
安田さん:
みんなが遊んでる遊びも、当時流行っていた手打ち野球なんかもやっていたのですけど、本当に自分が好きだったのは全然違う遊びで、ままごとの延長みたいなことをずっとやっていました。わざわざ幼稚園の園庭の遊具の下のところに行って、そこを基地みたいにして遊んでいました。小学校の2年生くらいから、通学路に落ちていた焚火の燃えカスみたいな炭を持ってきて、炭を売る「炭屋」を開き、それを紙のお金で売り買いする、という遊びです。石でつぶして粉々にしたり、ドロドロにしたり、大きな塊にしたり、いろいろしていました。最初は「原始人ごっこ」みたいな遊びだったと思うんですけど、割とすぐ飽きちゃって、多分そこから発展して、お店屋さんごっこになってたんだと思います。そこに賛同してくれた友達4~5人ぐらいかな、休み時間の度に幼稚園の園庭に行って遊んでました。
髙田:
お客さんはたくさん来ましたか?
安田さん:
お客さんは、自分達です。
いや、だから正直どこに楽しみがあったのかよくわからないんですけど、帰っていく途中に焚火の後とかあると、一生懸命ポケットに直接突っ込んだりして持ってきてね、「これは白い炭だから余計に価値があるんだ。」とか何とか言いながらやっていたのは覚えてます。多分4年生ぐらいまでかな。かなりしつこくやってました。
髙田:
授業の記憶はありますか。
安田さん:
授業の記憶は、体育の授業が楽しかったなと思います。市川先生って怖い女性の先生がいらして、大きなラジカセを持ってきて、いつもリズムダンスみたいなことをやってたのをよく覚えてます。私はずっと西組だったんですが、3~4年でも1~2年と同じ坂本先生という方に担任を持っていただいていました。1年生~4年生が同じ先生だったんです。そして坂本先生は国語が好きな先生だったと思うので、詩のノートを作ったり、国語の授業を一生懸命やっていたなっていう記憶があります。
あとは図工の授業は笠松先生という方に教えていただきました。粘土細工が面白くて、鳩笛とかよく作っていました。延長で休み時間とか放課後とかも、ずっと図工室や粘土室で鳩笛を作っていたんですが、別に何も言わずにやらせてくれて、しかもそれをちゃんと焼いてくれたんです。だから毎日毎日ちっちゃい鳩笛を作ったりしていました。授業じゃないですけど、そんな思い出があります。
髙田:
思い出の行事はありますか。
安田さん:
運動会、あとはマラソン大会ですかね。そこが、自分が輝ける場所だったので。
運動会は民舞がすごく好きでした。3年生の時の御神楽だったり、5年生の時の七頭舞だったり、6年生になっても七頭舞は太鼓を叩かせていただいたりしていたんで、すごくよく覚えています。あと、マラソン大会はやってみたら結構速くて、いい格好できる場所、ということでマラソン大会はよく覚えています。
髙田:
マラソン大会は校外でしたか。
安田さん:
そうですね。
プールの脇から出て、実篤公園の脇の細い道をずっと下って行って、どんぐり山を上って帰ってくる、というルートでした。今は自分が教員の立場なので、よくあんなことできたな、と思います。交通規制とか保護者の手伝いとか、いろいろあって出来たんだろうなと思うし、あれをずっとやっちゃっていたことも、すごいなっと思います。今はどうなっているんですか。
髙田:
今は、マラソン大会は無くなりました。
7年ぐらい前までは、多摩川に行って「走る会」っていうのがあって、走っていたのですが、なかなかそれも難しくなって、今は走る期間はあるみたいですけど。外を走るのは楽しいかったですよね。
安田さん:
楽しかったです。髙田さん時もマラソン大会はありましたか。
髙田:
ありました。地獄の坂が辛かった事を覚えています。
髙田:
楽しい桐朋小学校時代を過ごして教師になられたわけですが、教師になるきっかけや教師になろうと決めた時期を教えていただけますか。
安田さん:
その質問は、例えば採用の面接だったり、いろんな場面で聞かれてきました。でも、考えても、これっていうのが、あまり思い当たらないのです。ただ、私が早く大人になりたいな、と思ったきっかけは、小学校5年生の時でした。
小学校5年生の時に、古谷先生という方が体育を担当されていて、天気が悪くて外で活動できない日に、教室に来て雑談してくださったことがあったんです。
その時の話は、新潟からナホトカ号という船でロシアに渡って、そこからモスクワまでシベリア鉄道で行って、ヨーロッパ放浪して歩いたっていうような海外放浪のお話だったんです。周りの多くの子どもたちはポカーンだったんだと思うんですけど、私はもう耳の後ろが熱くなるぐらいすごい興奮して、その話を聞いていました。お金も全部なくなっちゃって、日本から履いていったジーンズを売ったとか、ジャンパーは日本製だとすごく高く売れたから、それを生活費にして旅を繋いでいった、とかいう話を聞いたときに、大人にすごい憧れを抱いたんです。古屋先生の話に出てきたソ連だとか、ヨーロッパだとかって言われてもよくわからなかったんですが、自分の住んでるところと、近くの公園と学校だけが生活圏だった自分にとって、大人になるとそんなとこにまで行けてしまうんだ、そんなに人間って逞しく生きられるんだって、とても印象に残って、そういう大人に早くなりたい、と感じたんです。だから学校の先生というより、早く大人になりたい、って思いました。その後、社会の仕組みをいろいろ知っていくうちに、自分の体験とか考えを、いつも子どもに投げかけ一緒に考えることができる、そういうことを職業にできる学校の先生って、すごくいいなというふうに思いました。大学受験では教員採用系の学部を受けていたので、多分そのときはもう教師になりたい、と強く思っていたと思います。本当は当時の心境はよく覚えていないのですが。
髙田:
何故小学校の先生だったんですか。
安田さん:
小学生って誤解を恐れずに言うと、こちらが話していることの5割、6割くらいしか正確に伝わらないことがあるんです。だからこそ予期もしなかった反応が返ってきて、それが面白くてしょうがないんですけど。そして、いろんな教科を通して全人的に関わっていく、という意味では、自分のイメージとしては小学校しかなかったですね。
髙田:
お仕事の魅力はなんですか。
安田さん:
自分の生き様が全部教材になるというところだと思います。親とは違う大人として子ども達に接し、子ども達のその後の生き方に、様々な面で影響を及ぼす…自分もそれですごく刺激を受けた方だったので、とっても素晴らしい仕事だなと思っています。
次回、安田尚民さん-後編-は<2024年9月1日>に予定しています。
こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,571名(2021年度3月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。
同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。
「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。