【Vol.52】桐朋との繋がり – 22期 岡部 正隆さん 後編-

ゲスト    :桐朋学園初等部 22期 岡部 正隆様(以下、岡部さん)
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)

 

岡部正隆さんとのインタビューの後編です。
前回のインタビュー<前編>はこちら

髙田:
このユニバーサルデザインはどれくらい世の中に浸透しているのですか。

岡部さん:
カラーユニバーサルデザイン(CUD)は、2002年以降、認知度がどんどん上がりました。自治体では、最初に神奈川県がガイドラインを作成しました。東京都もすぐに取り組みを始め、その動きは全国に広がっていきました。それから20年経っていますが、今もガイドラインのリニューアルをお手伝いしています。最近では港区が新しいガイドラインを作成し、港区のホームページに公開したところです。

この活動を続けている中で、普段接点がない人たちと話をする機会ができました。それまで研究の世界に篭っていたので、新しい世界が広がっていくのは、とても面白かったです。また、講演の依頼も増えました。東日本では学校や教育委員会、養護教諭研修会など教育関係のイベントで声がかかることが多いのですが、西日本では少し事情が違いました。ほとんどが自治体の人権センターを窓口に依頼が来るんです。関西では、人権侵害を防ぐための注意書きがトイレに貼られているのをよく見かけますが、色弱に関する講演が人権問題の一環として扱われることに少々驚きました。東京にいると同和問題等に接する機会がほとんどなく、少なくとも私は小学校でそのような話を聞いた記憶がないので、興味深く思いました。

最初は、ユニバーサルデザインではなく、バリアフリーという言葉を使っていました。バリアフリーというのは、「障害がある私たちが不便を克服するためにバリアを取り除いて欲しい」という考え方です。こういった問題をデザイナーの方々はどう捉えているのだろうと気になったことがありました。身近なデザイナーに聞いてみたいと思ったのです。桐朋の男子校の同窓会名簿の表紙を見て、そのグラフィックデザインを描いてる人が桐朋出身の工業デザイナーであることがわかりました。早速、そのデザイナー武者廣平さんにメールで「色の見え方が違う人がいることをデザイナーはどう考えているのか」と尋ねてみたのです。そうしたら、偶然にも彼はユニバーサルデザインに詳しく、「障害者を対象するのではなく、誰もが見える色表示にするという方向性に変えていくべきだ」と教えてくれました。バリアフリーは福祉予算を使った活動ですが、ユニバーサルデザインは企業が作る商品やプロダクトにも適用できます。福祉分野だけでなく、一般社会の中で広く受け入れられる仕組みなわけです。

バリアフリーは、バリアが完全になくならないと、バリアフリーになっていないと批判を受けることがあります。しかし、ユニバーサルデザインは「以前よりも良くなっていれば良い」という柔軟性があります。段階的な改善でも良いし、少しでも使いやすくなればユニバーサルデザインの基準を満たすことができます。色弱の人が困らない世の中を実現するためには、自治体の福祉予算使ってバリアを取っ払うよりも、一般企業が興味を持ち、商品やプロダクトに色弱の人が困らないような工夫を施していく方が早いのではないか、と考えるようになりました。例えば、赤・橙・黄のパイロットランプが並ぶコピー機の操作パネルは、色弱の人にはランプの色が判別しにくく、使いづらいことがあります。しかし、青色発光ダイオードの登場により、色弱の人でも区別しやすい青と赤のランプの組合せが操作パネルに採用されるようになりました。形も変える工夫や色以外の表示方法を取り入れることで、さらに使いやすいデザインが可能になります。一般企業の日頃の取り組みの中で改善を目指していく方が早かろう、というわけです。CUDになった操作パネルのコピー機が、偶然、研究室に納入された時には、「ついに世の中が変わり出した」と実感しましたね。

ユニバーサルデザインにも課題はあります。自治体では福祉予算を使うために、バリアが必要とされることが多く、ユニバーサルデザインでは予算がつきにくいのです。そのため、自治体向けにはバリアフリー、企業向けにはユニバーサルデザインと、言葉を使い分けて活動を進めてきました。

髙田:
今回、カラーユニバーサルデザイン機構(CUDO)のホームページを見させていただきました。いくつか実例が挙げられていましたが、一般の人でも、「こう変えた方が確かに見やすい」と思うものが多かったです。色弱の人に限らず、普通の人にとっても使いやすくなるデザインですよね。こういう取り組みがもっと広まると良いなと思いました。

岡部さん:
その通りですよね。ユニバーサルデザインは普通の人にとっても使いやすくなければ意味がありません。工夫次第で多くの人にとって便利なデザインになります。
装飾として使う色に関しては、デザインは自由であるべきです。ただ、情報を伝えたり、判断を求めたりする際の色使いには、配慮が必要です。赤や緑のポッチがそれぞれ別の意味を持つのであれば、色以外にも形を変えたり、ラベルで説明を補足したりして、別の情報がそこにあることがわかるように工夫する必要があります。
私たちのグループで行った例として、津波警報の色の統一がありました。以前は気象庁、NHK、民放各社で津波警報や注意報の色がバラバラでした。チャンネルによって使っている色が違うと混乱しますよね。そこで、これらの機関に統一することを呼びかけました。最終的には、紫、赤、黄色の組み合わせで統一することに成功しました。残念ながら、2011年の東日本大震災が発生したときには完全には間に合わなかったのですが、その後、すべての機関で統一が実現しました。この取り組みのおかげで、どのチャンネルを見ても同じ色で警報や注意報が表示されるようになって、情報がわかりやすくなりました。
統一したデザインは、色覚に問題がない人にとってもメリットが大きいです。テレビをつけた瞬間に、自分の地域が津波警報の対象なのか注意報だけなのかが即座に分かるようになったわけですから。

こうした課題が生まれた背景には、技術の進歩があります。学会発表のスライドが青背景で統一されていた時代が終わり、2000年代初頭は、自分でカラフルなスライドを作れるようになりました。ドローイングソフトを使って、カラフルなプレゼンテーションを楽しむようになりましたね。さらに、カラーコピーが安価になり、家庭用インクジェットプリンターが普及したことで、身の回りのデザインが急速にカラフルになりました。新聞も一部カラーになりましたね。それまでは白黒の資料が主流だったため、色弱の人にも問題がなかったのですが、カラフルなデザインが一般化するにつれ、配色の無秩序さが目立つようになり、新たな混乱が生まれました。この時代に、ユニバーサルデザインの概念が広まり始めたのは、非常にタイミングが良かったと思います。

最近では、Jリーグのユニフォームに関しても配慮が進んでいます。地の色と番号の色の組合せについて、色弱の人にも見やすいように変更が加えられています。デザインの自由は尊重しつつ、情報を色で区別する必要がある場合には配慮を欠かさない、という取り組みが増えています。
こうした活動に関与できたことは、とても面白い経験でした。今後も、より多くの人が見やすいデザインを目指し、CUDの普及を進めていければと思っています。

髙田:
知識として、色の組合せや配慮について理解しているかどうかで、取り組み方が大きく変わりますね。本当にちょっとした知識が広まることで、多くの人が恩恵を受けられる社会になると考えると、素晴らしい取り組みですよね。

岡部さん:
ありがとうございます。今の時代、多様性を尊重するという考え方が広がっていますが、昔はそうではなかったように思います。
例えば、色弱の子どもは医師になれないと言われていた時代がありました。私が慈恵医大に入学したのは昭和62年ですが、色弱の受験生を排除する医学部がなくなったのは、平成になって少し経ってからのことです。
そのような排除の時代から、現在のインクルーシブな社会を目指す時代に変わってきました。インクルーシブであるためには、すべての人が使えるデザインや環境が必要ですよね。

現在でも、色弱の人は鉄道の運転手や旅客機のパイロットにはなることができません。ただ、これは鉄道や航空機のデバイス、例えばコクビットの表示や信号機の色や形などを工夫することで解決可能だろうと思います。もちろん改善しなければならないインフラは多いので、すぐに実現は難しいかもしれませんが、将来的には段階的に変わっていくのではないかと期待しています。

髙田:
色弱の人だけでなく、高齢になって目が見えにくくなってきた人にとってもCUDは非常に役立つでしょうね。視覚的に見やすいデザインが普及すれば、社会生活がより快適になり、多くの皆さんにとって生活が楽になるんじゃないかと思います。
今日は楽しくためになるお話をたくさん聞かせていただきました。これから先、挑戦してみたいことや目標にしていることがありますか?

岡部さん:
そうですね。
今の活動も、桐朋で色弱の子どもとして学んだ経験が原点になっているように思います。当時、浅井先生が配慮してくれたわけですが、それは私の母親が事前に「うちの子は色弱なんです」と伝えてくれていたからなんです。母は理科の授業でも色で困ることがあるだろうと、理科の新ナベ、古ナベ、ふたりの渡辺先生にも相談してくれていました。そのおかげで大分救われたんだと思います。

これまでの活動の中でも、「自分の子どもが色弱なんですが」と母親が相談に来ることがよくありました。私自身は強度の色弱でも医学部に進学して、医師免許を取り、医学部の教授として組織学(顕微鏡を使って組織を観察する学問)を教えています。青紫とピンクに染まるヘマトキシリン・エオシン染色が1色にしか見えないんですが、それでも授業をしているんですよ。

だからこそ思うのは、「色弱だから」と言って悲観的になる必要はないということです。もちろん配慮は必要ですが、なんとかなると。どんなことでもそうですが、不得意だと思うなら別の能力でカバーすればいいし、苦手意識を持っても、背中を押してくれる人がいれば道が開けることもあります。
しかし、色弱というレッテルを貼られてしまうと、親御さんも「なぜ自分の子どもがこんな風になってしまったのか」と悩んでしまいます。そんなお母さんたちの悩みを見てきたからこそ、保護者の相談にも対応できる環境を学校に整えることが大切だと感じています。
色弱の子どもだけでなく、保護者も安心できる環境を作りたいですね。これはきっと、色弱に限らず、発達障害など他の特性についても広げていくべき課題だと思いますが、私は色弱のことをやってきたので、そういった保護者に対応できる学校づくりのお手伝いができればいいなと思っています。具体的には、学校が色弱についての知識を持ち、配慮をしながら教育を進める仕組みを作ること。そして保護者が安心して学校と連携できる環境を整えるということですね。そうした取り組みが広がれば、子どもたちの可能性も大きく広がると思います。

髙田:
親御さんの心配が、子どもにも影響している場合ってありますよね。

岡部さん:
そうですね。色弱は遺伝するので、その子の家系では深く理解されているのだろうと思われがちですが、実際にはそんなことはありません。色弱は劣性遺伝なので、お祖父さんと孫が同じ色覚の可能性はあるものの、その間である親の世代には色弱の人がいないのです。核家族だとお祖父さんは一緒に住んでいないので、同居家族の中に他に色弱の人はいないんですよ。
色弱の遺伝子は性別を決めるX染色体にあるので、色弱の子の遺伝子はお母さんから遺伝します。この保因者と呼ばれるお母さん自身は色弱ではありませんが、男の子を産んだときに1/2の確率で色弱の子が生まれます。仮に4人兄弟(男2、女2)の核家族だとしても、色弱の子どもは男の子1人しかいない可能性が高いのです。そうなると、色弱の子は家族の中でもマイノリティになってしまうわけです。
家庭生活の中で、子どもは親や兄弟から色の名前や区別の仕方を学びます。でも色の見え方が大きく違うから、いくら教えてもうまく身につかないんですよ。結果として「この子は何度教えても理解できない」と誤解されるし、「うちの子はおかしい」「なぜ覚えられないのか」と親が悩んだりします。
色弱の子どもが家族以外と長く接する最初の大人って、それは幼稚園や小学校の先生ですよね。クラスに30人、40人と子どもがいれば、色弱の子どもが1人はいる計算になります。毎年色弱の児童を教えているはずなのです。だからこそ、小学校の先生が色覚の多様性についての基礎知識を持ち、どのようなサポートをすれば良いかを学んでおけば、困っている色弱の親子を支援することができますよね。

似たような話では、食物アレルギーの話があります。教育学部では食事アレルギーのことを勉強します。以前に調布市で児童が給食のチーズ入りチヂミを食べてアナフィラキシーショックを起こして亡くなった事故がありましたよね。あれが教訓になって教育学部のカリキュラムにアレルギー教育が組み込まれたのです。現在では小学校の先生は食物アレルギーについて知識を持っています。
一方で、色弱に関する教育はまだ十分に浸透していないのが現状です。勿体無いと感じますし、取り組むべき課題だと思っています。現状では私もその働きかけが十分に行えていないのですが、今後はなんらかのアプローチを考えたいと思っています。

髙田:
確かに、先生がしっかりと知識を持って対応することが、子どもたちにとって一番大事なのだなと感じます。それでは最後に、同窓生たちに向けて、何かメッセージをいただけますか?

岡部さん:
今大学で教えているのは19歳や20歳くらいの学生たちで、私は解剖学や組織学を教えています。
慈恵医大では解剖学の授業は2年生で行われていて、その実習も60日ほど行います。そのため学生と接する時間が長く、作業中に交わす会話も多いので、彼らの個性に触れ、キャリアの悩みに触れる機会も多いんです。
最近、目の前のリアルなチャンスをつかまず、ネットの向こうにある「青い鳥」を追いかけている学生が多いように感じます。SNSやYouTubeで誰かが見せる「理想の世界」に憧れ、目の前のチャンスをスルーしてしまう、そんな傾向があるように感じます。
私が医師になった平成初期は、卒後キャリアデザインは相当自由だったと思います。実際私も医師免許を取得した直後に、もっと研究のことを学びたいと考えて、大学院に進学して博士号の取得を目指しました。当時も臨床に行かずに研究の世界に進む人は少数でしたが、それでも同級生の5%前後はそういう道を選んでいました。
今は卒業して医師になると、義務化された2年間の初期臨床研修を行い、その後は専門医になるための後期臨床研修が3年間あります。後期臨床研修制度は義務ではありませんが、目の前に教育プログラムがあると、みんなと一緒にその道に進んでいきます。気がつくと30歳くらいになっている。今さら博士号を取得するために休職してまで大学院に進学しようと考える人は少なく、結果として、研究医になる卒業生は激減しました。
本当に重要なのは、周囲と同じことをやるとか、何万人のフォロアーと一緒に遙か遠くの目標を追うことではなく、目の前にあるチャンスを見逃さないことです。自分しか飛びつけないものに挑戦してみる価値は大いにあります。それが成功すれば次のステップになりますし、失敗したら次の道を選べばいい。今の時代は終身雇用制ではなく、柔軟なキャリアの選択が可能なわけです。にもかかわらず、目の前のものを大切にしない風潮が残念に思えるのです。

髙田:
情報が溢れすぎていて、選びきれないのでしょうね。

岡部さん:
選択の余地がありすぎて、どれが良いかわからないとかね。でももっと直感的でいいんじゃないかなと思います。

小児科医になるという信念を持って勉強してきたけれど、脳神経外科の実習で素晴らしい先生に出会って、「あんな先生になりたい!」と思ったら、その先生について行ったらいい。小児科医になりたいと思ってたけど、「私のロールモデルはこの先生だ!」ってのは、ごく普通のことだと思うんですよね。

必ずしも信念に固執しない方がいい。SNSの彼方に見えた目標も同じかな。大切なのは、自分の個性に合った道を見つけることです。やりたいことに固執するよりも、自分の個性にフィットしたものを選ぶ。そのためには、今目の前にある、自分しか見ていないチャンスを見逃さないという柔軟な思考と行動が必要です。その代わり、一度選んだ道では、全力で自分を磨く努力をしてほしいですね。そうすれば、一つ一つの選択が、自分を成長させる糧になるはずです。

髙田:
素敵なアドバイスをくださる先生で学生たちに頼りにされているんだろうと思います。
今日は本当にお忙しい中ありがとうございました。またいろいろお話を機会があればお伺いしたいと思います。ありがとうございました。

岡部さん:
ありがとうございました。

今回のインタビューでご紹介した”NPO法人カラーユニバーサルデザイン機構”と”色のシミュレータ”は下記よりご覧ください。

▼NPO法人 カラーユニバーサルデザイン機構:https://cudo.jp/

▼色のシミュレータ(アプリ):https://asada.website/cvsimulator/j/

次回、卒業生のインタビュー記事は<2025年2月1日>に予定しています。

こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,784名(2023年度3月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。

同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。

「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。