【Vol.51】桐朋との繋がり -22期 岡部 正隆さん 前編-
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)
髙田:
今日は22期の岡部正隆さんにお話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。
それでは自己紹介からお願いしてもよろしいですか。
岡部さん:
桐朋小学校22期の岡部正隆と申します。
3級下に妹がおりまして、妹も桐朋小学校から桐朋女子高までお世話になりました。
私は1年生から6年生まで全部西組でした。桐朋女子でいうと紫の学年です。
6年間の中、1西、2西、5西、6西の4年間を遠藤清一先生に、それから3西、4西の2年間を森孝一先生にお世話になりました。桐朋中学校、高校でも担任は男性でしたので、結局私は女性の担任というのを一度も経験しませんでした。
桐朋高校卒業後は、東京慈恵会医科大学(慈恵医大)に進学して医師になりましたが、臨床医にならずに、研究医の世界に進みました。東大の医科学研究所、筑波大学、国立遺伝学研究所など転々としましたが、一貫してショウジョウバエを使って、卵から身体ができいく過程を遺伝子がどのようにコントロールしているかを明らかにする発生学を研究していました。その後ロンドンに留学する機会を得まして、そこでは魚やニワトリを使って発生学の研究をしていました。帰国して母校の慈恵医大に戻った2年後に、解剖学講座の教授になりまして、以来ずっと慈恵医大で医学生に解剖学を教えながら、発生学の研究を続けています。
髙田:
ありがとうございます。小学校の思い出の話はありますか。
岡部さん:
ここは何も変わってないですよね。
50年前に入学したときと変わった校舎があるのかな?って考えてみると、2年生のときでしたか、平屋の職員室と図工室がなくなって、そこに今図書室のある3棟目の校舎が増築されましたよね。工事の進み具合を覗けるように、防音壁にのぞき窓があったのをよく覚えています。確か犬やネコも覗けるように下の方にも窓がありました。その後何も変わってないんじゃないですか。低学年校舎もそのままですし、驚きです。
髙田:
ここが音楽室(現理工室)でしたね。
岡部さん:
ここが高学年用の音楽室でしたね。
髙田:
ステージがあったりして。
岡部さん:
野外ステージが今ではビオトープ風に変わりましたけど、それでも広さも傾斜も変わってないし。
なんか不思議なぐらい変わってない。懐かしいですね。
髙田:
小学校の時は何をして遊んでいましたか。
岡部さん:
畑仕事が楽しかったですね。遠藤先生の影響を強く受けました。
遠藤先生が暇さえあれば畑仕事をしていたんです。あの低学年校舎の1階は1西、1中、1東の教室でした。その後図工室になりましたけど。1東の教室の前から幼稚園の校庭までの間が畑だったんですよ。
あそこの畑で、赤カブを作ったのかな。パラパラとタネを撒いて、たくさん芽が生えてきたあと、間引きしちゃうんです。間引きって言葉も覚えました。かわいそうだな、もったいないな、とか言っていると、間引きしたそばから、遠藤先生が「食べろ」って。ちょっと辛いけど食べられるんだって驚いたり。ちゃんと出来上がった赤カブは収穫して、みんなでお昼に食べる。ほうれん草を収穫すると、遠藤先生がそれでお雑煮を作ってくれて、みんなで食べたり。育てたものを自分たちで食べる、その育てる過程の畑仕事が楽しかったですね。
5年生、6年生で再び遠藤先生になって、今度は神代高校の方にある畑で、サツマイモやジャガイモなどを作っていました。放課後に一輪車を押してよく畑に通っていて、栽培部っていうクラスの部活にもなっていました。遠藤先生は山形県の月山の麓で生まれ育って、農家で育ったから、農作業には慣れているとよく話していました。どの野菜を育てるのに、どういう土が良いか、どういう肥料を使うとか、牛糞だとか鶏糞だとか、石灰だとかピートモスだとか撒いたり、やらなきゃいけないことをあれこれ説明してくれて。きちんと土を作って、やることやれば、きちんと野菜は育つ、って見せてくれたんでしょうね。そういうのがすごく印象に残っているんですよね。
普通、芋掘り会とかって、出来上がった芋を収穫するだけで、育てる過程はやらないと思うんですよ。土作って、植えて、雑草を取りに行って、その辺のメンテナンスも含めて全部やるんですよ。今考えても貴重な経験でしたね。
髙田:
遊んでいるというよりも畑仕事ですかね。
岡部さん:
その畑仕事もほとんど遊びですよね。
牛糞の中に足を踏み入れてしまって、足が抜けなくなっちゃったとか。そういうのはすごくよく覚えていますね。靴がうんこまみれで帰ったり。
僕は球技とか走ったりとか運動が苦手で、校庭で遊ぶより、理科園で生き物を見て遊んだり、野外ステージの植え込みで捕まえたオケラで遊んだりする方が多かったかな。土をいじったり、虫を捕まえたり、理科園の池の鯉に虫を放り込んで食べるのを見たりとか。そういう方が楽しかったです。
元々こういう子どもだったようで、なんかを観察しながらあれこれ考えるのが好きだったんだと思います。入試の時に2つよく覚えていることがあって。
ひとつは、先生たちが行動観察するために受験生を自由に遊ばせているところでのことです。今考えてみるとそういうシチュエーションだったんだろうなと思うわけですが。11月で寒かったからだと思いますが、待機していた外のテラスに火鉢があったんです。みんなは部屋の中でいろんなことして遊んでいるのに、僕はずっと火鉢を見ていたんです。火鉢の中で炭が燃えていて、パチパチって音がして、息をかけると炭が黄色く光るんです。面白くてその炭をずっと見ていたんですけど、もう1人一緒に炭を見てた子がいたんです。お受験は結構な倍率だったと思うのですが、入学したら彼もいたんですよね。桐朋ってのは、元気に遊んでいる子よりも、火鉢に見入っていた2人を入れるんだ、ってだいぶ経ってから面白いなって思いました。
髙田:
それは小学校入試ですか?
岡部さん:
小学校入試の時ですね。
もうひとつも小学校入試の時の話なのですが。低学年校舎の2階、幼稚園の教室と小学校の低学年の教室の間に、小さな会議室がありました。10人くらいの受験生がそこに誘導されて、「皆さんここに座って待っててくださいね」って言われたんです。誘導してくれた先生、マカロニほうれん荘のトシちゃんみたいな顔をした先生だったんですけど。
髙田:
誰だろう、男の先生ですか?
岡部さん:
木村先生だったかな。トシちゃんみたいにレイバンのサングラスをかけて黒髪のストレートヘアーで。その先生がその部屋に僕たちを誘導した後、「ちょっと待ってくださいね」って言って部屋を出て、廊下を左の方へいなくなったんです。しばらくして左の方からメガネをかけていないグレーの髪の毛の丸山先生が歩いてきたんですが、、それを見て、「すごい!さっきの人、変身した!」って思って疑わなかったんです。入学後、木村先生と丸山先生が立っているのを見て、2人が別人であったことにやっと気づいたのでした。
小学校をお受験する為に塾に行っていろいろとトレーニングを受ける人は多いと思うのですが、全く見た目の違う木村先生と丸山先生が変身の前後の姿であると信じて疑わない子を、「みんなで遊びましょう」って言われているのに火鉢の炭を見続けていた子を、この学校はよくぞ拾ってくれたもんだ、ってすごく感謝しています。
髙田:
きっと先生方にも印象的に思えたのでしょうね。
岡部さん:
変な子を取りたかったんですかね。
国立の桐朋学園小学校の方は、もうちょっとお勉強できそうな子を取っているっていう話がありました。今もそうなのかどうかはわかりませんけれど。仙川出身はやっぱり面白い子、変わった子が多い、って言われていたように思います。
髙田:
中高に行って仙川小の子は変わっているねと言われるのですか?
岡部さん:
「アホの仙ちゃん」て言われていたと後で後輩から聞きました。もしかすると私たちより下の学年で言われていたのかもしれませんけど。
成績は悪かったですよ。小学校で通信簿がなかった。試験ではたくさん点数取らなきゃいけない、って知らなかったですからね。仙川から上がってきた生徒よりも上位に、中学受験で入ってきた極めて優秀な200人が丸々加わったような成績順位でした。ただ国立で6年も過ごすとだんだんとシャッフルされていきましたけどね。
髙田:
その中で岡部さんは立派に慈恵医大に入学されて、素晴らしいです。
そのお医者さんになろうと思ったのはいつぐらいからですか。
岡部さん:
父が内科の医師で、私が5年生のときに笹塚二丁目に診療所を開業しました。祖父も内科医で、笹塚一丁目で開業していたので、祖父は私も三代目の医師になって笹塚三丁目に開業することをイメージしていたようです。なので、何となく医師になるっていうイメージはあったかもしれませんが、小学校のときは栽培部で、中学高校は生物部で、釣りや昆虫採集など生き物や自然に触れることが大好きだったので、高校3年生の秋まで理学部生物学科に進学しようと思っていました。
高3の11月でしたか、父が「医学部を出ておけば、生物としての人間も研究対象にできるのにね」って、ぼそっとこぼしたのですが、確かに、医学部出ても生物学の研究はできる、と思い、急遽医学部志望に進路変更したのです。ひどい動機ですね。すでに共通1次を出願していたのですが、国立大学の医学部は今からは無理だろうと、慶應の医学部と日本医大と慈恵医大の3校だけ受験しました。うまいこと日本医大と慈恵医大から合格をもらったのですが、父が日本医大出身だったので裏口入学とか言われないように慈恵医大に進学しました。
髙田:
そしてさらにカラーユニバーサルデザイン機構で活動をされているそうですが、そのカラーユニバーサルデザインについて教えていただいてもよろしいでしょうか。
岡部さん:
私は、色盲とか色弱とかとも呼ばれる先天色覚異常という特性を持っています。そこで色弱の人も区別に困らない色使いを社会に普及啓発していこうという活動を2001年から始めました。
最初は私と同じショウジョウバエの研究者で色弱の伊藤啓氏と2人で活動を始めたのですが、2004年にはNPO法人カラーユニバーサルデザイン機構(CUDO)を立ち上げ、以降このCUDOで活動をしています。いろいろな家電メーカーや複合機メーカーなどのデザインルームに入りこんで商品の色使いを助言したりする上で、秘密保持契約を結ぶために法人格が必要になり、NPO法人を立ち上げたのです。
僕の色弱は強度の色覚異常で、眼科学的には1型2色覚と診断されます。CUDOでは、世の中には多様なタイプの色覚が存在することから、どれが正常な色覚と定義せずに、色覚のタイプをABO式血液型のように悪戯に価値観を与えないアルファベットで呼ぶことを推奨しています。一般的な色覚、眼科学でいう正常色覚はC型色覚と呼びます。私のような1型色覚はP型色覚と呼びます。PCRを使って自分の遺伝子を調べた結果、関連遺伝子が欠失していることを突き止めていて、私は強度のP型色覚であることがわかっています。小学校時代から色の見分けではたまにトラブルがありました。一番よく覚えている出来事は、図工の時間に校庭のイチョウの木を水彩絵具を使って写生した時のことでした。
中高のグランドと小学校のグランドの間にポールが立っていますが、あそこのレンガに腰掛けて、目の前のイチョウの木を描いていた時のことです。僕は茶色と緑の区別が苦手なのですが、パレット上で自分なりに絵の具を混ぜてイチョウの木の肌と同じに見える色を作りました。しかしC型色覚のみんなから見るとそれは緑色だったようです。その色で私が木の幹を描いたら、「何てすごい色で塗ってるんだ」ってちょっと騒ぎになったのです。
それを見た図工の浅井先生が駆けつけて、「あんたたち部屋に戻りなさい!」と、写生を中止させて全員を図工室に集めて、色弱について説明をしてくれました。浅井先生は「そういう見え方をする人が世の中にはいるんだよ」「岡部くんにはそう見えているんだからそれでいいじゃない」っていう話をしてくれました。
そういう多様性があるっていうことを、あの段階で皆に説明して、見えているものを見えている通りに描くのは自由、っていう説明をしてくれて、今でも適切な指導だったと思います。その後、いじめに発展することもなく、私が色を見分けるのが不得手であることを知ったら、皆が手伝ってくれるようなったんです。
もちろん興味津々な子どもたちなので、机を指さしてこれは何色?消しゴムを手に取ってこれは何色?これは何色?とかえらいしつこく聞かれるのですが、逆に、色で困ったときに他の人に聞きやすかったですし、気にしてくれる人は、わかる?って聞いてくれたりもして、私が色弱であることが知れ渡ったことでずいぶん楽になった気がしました。
色弱に関しては、進学や就職の差別があった時代ですので、自分の色覚のことは周囲には黙っていろ、という時代でもありましたが、小学校でこのような体験をしたからか、支援してもらうためにカミングアウトすることに関してはあまり抵抗がなかったように思います。それが現在やっている啓発活動の実践につながっているように思います。
大学卒業後に研究の道に進んで再び苦労することがありました。それは顕微鏡を覗いていて、赤と緑の蛍光色素の光を見分けられないことでした。見分けられないのであれば、自分の眼でも区別できる他の方法を使って問題を解決していましたが、学会などでスクリーンに映し出される赤と緑の2色表示の蛍光顕微鏡の写真に関してはその画像から情報を理解するのはお手上げでした。そんな学会活動の中で、蛍光顕微鏡のとてもカラフルな写真を使いこなしている東大物理学科出身の先生がいたのです。僕より6歳くらい年上のその先生は、当時最先端のコンピュータ制御の蛍光レーザー顕微鏡を使いこなしていて、デジタルアートのようなカラフルな顕微鏡写真とイラストを駆使して、いつもエレガントなプレゼンテーションをしていて、憧れの存在でもありました。
あるとき、「僕は蛍光顕微鏡の赤と緑の光が見分けられないんですよ」と彼にこぼしたら、「僕もそうだよ」という驚きの返答があったのです。後で分かったのですが、彼も強度のP型色覚で私と全く同じ色の見え方をしていたのでした。彼が伊藤啓氏で、そこから一緒にカラーユニバーサルデザインの普及啓発活動を始めたのです。カミングアウトすることに躊躇していたら、このコラボは始まらなかったかもしれません。桐朋小に感謝です。
これが2000年頃の話です。2001年には私たちにとって画期的な発明が公開されました。それは色弱の人の見え方をシミュレーションする画像加工プログラムが開発されたのです。それとほぼ同じアルゴリズムを組み込んだアプリがこの「色のシミュレータ」です。iPhoneでもAndroidスマホでも使えます。例えばこのお茶のラベルが色弱の人にどう見えいてるかをこのアプリでリアルタイムに確認することができます。画面上が今カメラに写っているオリジナルの画像ですが、下は強度のP型色覚の人の見え方をシミュレートした画像が映っています。つまり私にはこれがこういうふうに見えていると他の人に見せることができるのです。色弱の人は赤と緑が区別できないってことはよく知られていますが、実際それがどう見えているのかを想像するのは極めて難しい。こうやってビジュアルにその困難を見せることができれば、配慮の仕方を考えることもできるようになります。
ケンブリッジ大学のジョン・モロン先生が開発したこのアルゴリズムに基づいて、任意の画像ファイルをアップロードすると、色弱の人の見え方のシミュレーション画像に変換されてダウンロードされるという画期的なウェブサイトが、2001年の春に公開されました。色弱の人の見え方を多くの人たちに知ってもらうことができる!私達が困っているのはこういうことなんですとビジュアルに見せて、だからこういう配慮をお願いします!と啓発ができるぞ、と直感的に思いました。そこで同じ年の夏に、僕がオーガナイザーをしていた200人~300人ぐらい集まる研究会があったので、そのシンポジウムの1枠を使って、色弱の研究者の困難を紹介して配慮を求めたのでした。これがカラーユニバーサルデザインに関する最初の啓発活動でした。
半年後の2002年の正月に、この活動が新聞に掲載されました。「色にもバリアフリーが必要」という見出しの共同通信配信の記事です。この記事を書いたのは、桐朋中から生物部で一緒だった同級生の酒田英紀記者でした。彼のお母さんは桐朋女子で物理の先生をされていましたね。彼にこういう活動を始めたんだと話をしたところ、「それは面白いから記事にしよう、お正月明けだとみんなこういう記事を読むからその時期に配信しようよ」と。その後も私たちの活動を度々取材して記事にしてくれました。
その後、この記事を読んだ人たちからたくさん問い合わせをいただきました。いろんな人の目に留まり、家電メーカーや複合機メーカーなど大きな会社が自分たちも配慮をしたいので話を聞かせてほしい、と。これで一気に盛り上がり、2004年にNPO法人を設立して、今に至っています。
URL:https://cudo.jp/
次回、岡部正隆さん-後編-は<2025年1月1日>に予定しています。
こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,784名(2023年度3月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。
同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。
「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。