【Vol.35】桐朋との繋がり -40期 中嶋 涼子さん 前編-

ゲスト    :桐朋学園初等部40期卒 中嶋涼子さん(以下、中嶋さん)
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)

 

髙田:
今日は40期の中嶋涼子さんにインタビューをお願いしました。まずは自己紹介からお願いいたします。

中嶋さん:
職業は車椅子インフルエンサーと名乗っていまして、今約4年目なんですけど、それまでは映画の編集のお仕事をしてまして、私は今36歳なんですけど、9歳までは普通に歩いて過ごしていまして、桐朋小学校も7歳から通っていて、小学校3年生の時にですね。桐朋の休み時間の20分。

2時間目と3時間目の間の休み中に、鉄棒でこうもりをしてたんですけど、コウモリをしてコウモリから地面にジャンプして着地した瞬間に突然足が動かなくなってしまって、そのまま入院をして、そこから車椅子生活を始めたんですけど、そんな感じで車椅子になってからも桐朋に戻ってきて、小学4年生から自分だけ車椅子っていう感じで、でも桐朋が受け入れてくれたので、スロープをつけてくれたり、トイレも作ってくれたりして、また昇降機にも付けてくれたりして、小学校5年生から私だけ車椅子という状態でみんなにサポートしてもらいながら、学校生活をして小中高をずっと桐朋で。

周りは歩いてる友達が当たり前の状態でずっと過ごしてきたっていう感じで、で桐朋卒業後はアメリカのロサンゼルスに留学をしまして、語学学校、短大、大学とアメリカに行って、その後映画学校に入って約7年間留学をして、日本に戻ってそこから夢だった映画の仕事に就いてたんですけど。

何となく日本は車椅子で障害があって生きづらいなと思って、留学中にアメリカで生活している時に障害がある人がいっぱい街中にいて、障害がある人もキャンパスもいっぱいいたり、いろんな人が当たり前にいる社会があってすごい生きやすい社会だったんですけど。

日本に戻ってきたら、すごい生きづらいなと感じて、もっと日本がアメリカのようにどんな人も生きやすい社会に変わったらいいなと思って、そういった変える活動を自分に何かできないかなと思って、自分にしかできないことって言ったら、この人生を話すことぐらいかなと思って、講演会みたいなことを始め出したのは約4年前で、4年前から車椅子インフルエンサーとして講演会とか。
後はYouTubeを立ち上げてYouTuberをしたり、テレビに出させてもらったりして、メディアを通して車椅子の人をいろんな人に知ってもらえたらいいなと思った。

そんなことをしています。
すいません自己紹介が長くて。

髙田:
久々に桐朋小学校に来て、桐朋小学校に残っている思い出はありましたか。

中嶋さん:
そうですね。いっぱいあるんですけど、まず入り口にスロープが置いてあったのが感動して、私が車椅子になって初めて登校する時に先生たちがいろいろ聞いてくれて、手作りでスロープを作ってくれて、あんな5、6年のげた箱のところに今もあるんですけど、それが残ってたのがちょっと嬉しくて懐かしくて、いつも私はそこから出入りしてて、あと自分が美術の時間に友達と作った図書室の看板が今も図書室の床にぶら下がってて、それも嬉しくて。

後はやっぱり何でしょうね、校庭の竹馬とか一輪車とかを見ると、自分も昔遊びが大好きで竹馬がすごい好きだったんですよ。竹馬とけん玉と一輪車ばかりしてて、それを見るとやっぱ桐朋生だからこそ昔遊びができたなと思って、ちょっと思い出しましたね。

高田:
昔から、竹馬やけん玉をやってますよね。

中嶋さん:
そうですね。昔遊びの会とかありましたよね。

髙田:
今でも多分あると思います。

中嶋さん:
講演会の後にみんなでけん玉をしたら、すごい盛り上がってやっぱり桐朋生だからこそ盛り上がりますよね。

髙田:
けん玉は大人になってからもできるから一つのコミュニケーションツールとしていいですよね。
車椅子になる前と車椅子になってから、とでは友達との接し方や学校生活が変わったと思うのですが、中嶋さんのご自身の気持ちの変化を教えてください。

中嶋さん:
私は本当に運動がすごい好きだったので、ずっと1年生~3年生までは運動が好きな友達と外でいつも遊んでたんですけど。

やっぱり車椅子になってからは、あんまりアクティブに外に出るのは大変なので、休み時間に一瞬外に出るとかって昇降機に乗ったりしていると難しくて、あんまり外に出れなくなってしまって、友達も結構の部屋で遊ぶ友達みたいな子たちが増えてきて、その子たちとできることをして、トランプとかしたり、色々したり遊んでたんですけど、全員で大繩飛びをする時とか、当時ゴム弾が流行ってて。

私も歩いてた時、ゴム弾に凄いハマってやってたんですけど、そういうのを友達がやってるのを見てる時に、当時私はまだ自分の障害を受け入れられてなかったので、性格上ちょっと明るい感じだったから、みんながやっているのを見てるんですけど、自分が運動神経がどちらかと言えば得意だったから、凄いうまく自分だったら出来るのになぁみたいに思いながら、みんながやってるのを見てると、何か悔しくてたまに泣きそうになりながら、涙をこらえながら笑って見てた時とかは実はあって、そういう時になんかすごい悔しかったですね。

歩けたからこそ、歩けた時のできた時を思い出してしまって凄い泣きそうになったりしたこともありました。それがつらかったこととしては覚えてることで、楽しかったこともいっぱいあって、その車椅子になって学校に行ったらみんなに嫌がられないかなとか。何か引かれないかなとか。

こうみんな悲しむのかなとか、結構ネガティブな気持ちでいたんですけど、みんな全然変わらなくて前と変わらず接してくれて、むしろ車椅子を押したいとか言ってくれて、みんな押し合いになったり、車椅子乗りたいって言ってみんなが乗せてって言ってくれたり、結構みんなが来てくれて、みんな変わらず接してくれて、当時昇降機がまだなかった頃はみんなで車椅子を持とうとか言って、みんなで持ってくれたりして、先生達を呼んでくれたりとか、何かみんなで一緒に障害を乗り越えるみたいなことを、友達がみんなでやってくれて、トイレに行くのも連れて行ってくれたりとか、当たり前に段差をみんなで乗り越えたりとか、いろいろやってきたので、大人になった今、その当時の同級生に会うと自然と、レストランとかに階段があってもここ行けないね、じゃなくて、みんなでじゃここ持とうみたいに4つに分かれて、持ってくれたりとか、同窓会する場所を決める時に、ここなら車椅子用のトイレが近くにあったよとか言ってくれる友達が多くて、何かそれって自然と一緒にいたからそうやって気付いてくれるんだなと思って、今すごく嬉しくて、そういうのを当時自然とお互いにコミュニケーションを取ってたんだろうなって凄い思います。

髙田:
お友達の心もバリアフリーになっていったのですね。

中嶋さん:
それが一番おっきいなと思って、私は運良く一緒に普通学校に一緒に入れたから、私の友達は自然とその心のバリアフリーと言うか、車椅子の人にどうやって接していいかを勝手に覚えてくれたと思うんですけど、障がい者の人と接していない子どもの方が大半だと思うんですけど、そういう人は大人になった時に障がい者と出会ったらどうしていいか分かんなくなるのは当たり前だと思っていて、でも私の同級生みたいに子どもの頃からみんなが触れ合っていたら、多分みんな自然とどうやって接していいか分かっていくんだろうなって思って、そういう子どもの頃から一緒にいる時間が多かったらいいなってすごく感じますね。

髙田:
お互いにいい関係性だったのですね。
学校も中嶋さんに関わる大人も子どももみんなでバリアフリーになったということなのかなと思います。

中嶋さん:
子どもたちだけじゃなくて、先生たちとか親御さんもそうで、私はあの当時自分でトイレに行かなかったんですよ。今はもう力もついたし、全部トイレも自分でできるんですけど、小3の頃はまだリハビリがちゃんとできてなくて、トイレもお母さんに抱っこしてもらって行ってたんですよ。

だから最初の頃、休み時間になる度に、お母さんが来てくれて、それじゃお母さんが大変だねっていうことで、友達のお母さんたちと保健室の先生とか、女子の先生たちは手分けして、担当の日にちとかを決めて、今日は誰のお母さんとかって決めて、私のトイレの手伝いや、抱っこする練習とかしてくれって、ズボンを下げたり上げたり、全部お母さんたちがやってくれて、何かそれも温かいなと思って、そのお母さんたちとか、先生たちのおかげで、私はトイレも行けたし。

でも当時は一人でトイレ行けないし、友達のお母さんにトイレ見られて、嫌だとか思ってたんですけど、でも今思うと本当にその心の温かさのおかげで、私はこの普通の学校で過ごせたんだと思って、結構すごい感謝していて、周りの温かさや団結力みたいなのが桐朋ってすごいなって感じますね。

髙田:
そうですね。桐朋は親も子も団結力がありますよね。

中嶋さん:
今思うと感謝でいっぱいです。

髙田:
先ほど高校を卒業してからアメリカに留学していたとおっしゃっていましたが、アメリカに渡った理由はなんだったのでしょうか。

中嶋さん:
小3の時に車椅子になって、小学校に戻ってたんですけど、やっぱり車椅子になって初めて街に出た時に、すごい人目を感じたんですよ。車椅子の人が当時あんまり外にいなかったから、珍しい目で見られることだったりとか、歩いてた時に自分で行けたような場所も一人で行けなくなっちゃって、段差があったり、坂があったりして、すごく生きるのって大変だなって思うようになって、外に出るのが苦痛になってしまって、人にも見られたくないし、一人じゃどこも行けないと思った時に、家にいた方が楽だなと思って、ひきこもりになってしまったんですよね。

小学校4年生ぐらいから、小学校へ行く以外は家にいて一人でテレビとか見てろが楽しいとか思って、ひきこもりだった時に、当時仲良かった友達にすごい流行っていたタイタニックを見に行こうって言われまして、でも映画館っていっぱい人がいるし、またみんなに見られて嫌だなって思いながら、嫌々行ったんですけど、結果見に行ったらディカプリオに一目惚れしました。

ディカプリオがすごいかっこよかったのと、後はストーリーでタイタニックが沈没してみんな死んでいく中で、あの二人が頑張って生き抜いていく、みたいな二人の生き方にすごく感動して、自分ももっと前向きに生きていこう。それを見て凄いパワーをもらったんですよ。

タイタニックを見終わった後に、初めてひきこもってた自分がもう一回外に出て、タイタニックを見に行きたい。って思えて、結果、11回も観に行ったんですけど、11回も外に出れて、人に街中で見られることにも慣れていたし、段差があったり、映画館で階段があっても、誰かに頼んで手伝ってもらって、映画館まで行ったり、何かいろんなパワーをタイタニックにもらえて、その時に自分が思ったのはタイタニックに前向きに生きる希望とかパワーをもらったように、いつか自分も誰かにこういう前向きなパワーを与えられる側の人になりたいなっていう夢が、車椅子になったお陰で見つかりましたで、映画といえば本場ハリウッドと思って、いつかハリウッドで映画の仕事をするっていう夢が小5で見つかったんですよ。

車椅子になったお陰で、夢が見つかって、中高は英語部のに入って、私は勉強があんまり好きじゃなくて大嫌いなんですけど、英語だけは頑張って勉強して無事に卒業してから夢だったアメリカのロサンゼルスですね。

当時通ってた英語の塾の先生に、映画学部に行きたいって言ったら、映画学部といえばアメリカのロサンゼルスにある南カリフォルニア大学(USC)が一番いいと思うと勧められて、フィルムスクールだからみたいに言われて、じゃあそこを目指そうと思って、そこに留学をしようと思って、アメリカにまず留学をして、そこから語学学校に行って、まずカレッジに行って、そこで一般教養を2年間勉強してからそのときに成績がよければ、USCに入れるっていうことで、人生で初めてすごい勉強したんですよ。

2年だけで頑張って勉強してUSCに入れて。
夢が叶い、映画学部に入れたっていう感じで、アメリカに留学して英語を勉強してました。

髙田:
お一人で留学していたんですか。

中嶋さん:
親は結構自由な考え方で、映画が好きで親も映画が好きだから、いつもお母さんと一緒に映画とかを観に行ってて、この映画を学びにアメリカへ行きたい。って言ったら、いいねみたいに言ってくれて、家族旅行でアメリカの文化に触れてみようと思って初めてハワイに行ったんですよ。家族で。

そしたらハワイで初めてアメリカの文化に触れて、そこで町中で知らない外人さんにいきなりハーイ!とかって声をかけられて、向こうの人って目が合っただけで、ハーイ!って笑顔で笑ってくれるんですけど、それがすごい心地よくて、日本ってみんな目があっても目をそらすじゃないですか。

車椅子だから、余計にみんな手伝いたいって思ってもどうしていいか分かんなくて、目をそらしてくる感じが、みんなに見られてる感じがすごい嫌だったんですけど、アメリカって目が合った瞬間にハーイ!って言ってくれるから、それだけで受け入れられてる気がして、すごい心地よくて、それだけじゃなくて何で車椅子なの?とか聞いてくる外国人が結構いて、他にも手伝おうかとか、気軽にみんな声を掛けてくれたのがすごい心地いいなって。

ハワイ旅行に行って思って、やっぱりアメリカに住みたいって言ったら、お母さんも賛成してくれて、一緒に行くって言ってくれて、お母さんも語学学校に行って、ビザを取って一緒にお母さんも最初の5年間は一緒に留学してくれてたんですよ。お父さんは日本で待っててっていう感じの生活をずっとしてました。

髙田:
お母さんにとっても大冒険だったですね。

中嶋さん:
そうですね。45歳ぐらいでいきなりアメリカに行って英語で話してすごい冒険ですよね。

でも、お母さんは5年後にちょっと大腸癌になっちゃって、日本で手術しなきゃいけなくて帰ることになって、今は治ったんですけど、それをきっかけに一人暮らしをしだして、それもまた冒険だったんですけど、一人暮らししたっていう感じで計7年アメリカにいました。

髙田:
人と人との触れ合いが、日本とアメリカで異なるということですね。

中嶋さん:
そこが大きかったですね。

髙田:
他に感じた日本とアメリカとの違いはありますか。

中嶋さん:
心のバリアフリーだなってすごい感じたんですけど、それだけじゃなくて環境もバリアフリーもやっぱりアメリカがすごくて、そのアメリカってトイレが日本だと多目的トイレってじゃないとトイレに入れなくて、車椅子の人って。ちょっと広くて手すりがあるトイレ多目的トイレをいつもどこにあるか探してばっかりで、デパートとかいっても、車椅子マークのトイレが何階かにしかないから、そこの階に行かないといけないんですけど、アメリカのロサンゼルスには多目的トイレっていうもの自体がなくて、女性用のトイレや男性用のトイレどっちにも一番奥に大きめの手すりが付いたトイレがあって、そこに車椅子を人も入れるという仕組みだったから、トイレがあれば、私はトイレに行けて健常者と同じように生きれたんですよ。

だから日本って、車椅子用のトイレがあるレストランとか商業施設とかでしかご飯とかに行けないんですけど、アメリカに行ったら行きたいところに行けば、絶対トイレあるからトイレのことなんか気にしないで行きたい場所に食べに行けるし、行きたいお店に行ってるし、エレベーターも絶対にルール上、どんな施設にも絶対エレベーターがないといけない。段差とか階段があるショップには絶対エレベーターかスロープつけなきゃいけないっていう法律のおかげで、日本ってちょっとした段差があるオシャレなバーとかオシャレのお店とか多いから、結構諦めがちだったんですけど、アメリカってそういうオシャレ系がいけないかなと思いつつ、裏にエレベーターがあったり、絶対スロープがあったり、どこでも入れてどこでも行けてどんどん気持ちよくなっていって、その1か月間、ハワイ旅行に長期で行ってたんですけど、その1か月後には自分が車椅子に乗ってるのを忘れるぐらい居心地が良くて、環境の面もだし、人のアシストがすごいウェルカムな感じだし、すごい居心地が良くて障がい者のことを忘れられるぐらい、どこにでも普通に行けて健常者と同じように選択肢があって困ることが本当になかったんですよ。そこがすごい心地よかったですね。

次回、中嶋涼子さん-後編-は<2023年7月1日>に予定しています。

こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,571名(2021年度3月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。

同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。

「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。