【Vol.7】桐朋との繋がり -武藤 昭先生<前編>-

ゲスト    :武藤 昭先生(以下、武藤先生)
インタビュアー:桐朋学園初等部同窓会 会長 坂口佐代子 (以下、坂口)

 

坂口:
武藤先生、おはようございます!本日はお時間を頂きましてありがとうございます。
早速ですが、先生と桐朋小学校とのつながりはどのようなきっかけがあったのでしょうか?

武藤先生:
大学四年の時に、わたしたちの時代は教員がとても足りなくて、特に小学校・中学校ですね。
つまり、戦後、経済成長した時代で特に首都圏の子どもたちがかなり増えている、というそのような時代でした。ぼくは教員になりたかったのですが、なかなか決まらなかったんですね。それで大学四年の1月でしたか、卒業までふた月あたりに、母親が「採用試験はどうなったの」と聞かれたので、「試験を受けたところからなかなか返事が来てないんだ」って言ったら、「ちゃんと問い合わせした方がいいよ」と言われて、教育委員会に問い合わせたら、「返事がないのが結果ですよ」と言われて、だめだったんです。

どうしようかと思って、大学時代の4年の夏に先輩が東京都の大島の方で高校の教員をやっているので遊びに来ない?と言われた時のことを思い出した。島の校長先生を紹介するよってことで、教員が足りないから小学校を受けたら大丈夫だよって言ってくれて、遊び行って(笑)。
そして、もう駄目だから東京都の最終の3次試験を受けるしかない。それを受けていたらあるいは、拾われるかもしれないので、受けて島に行くんだろうなと思っていました。呑気ですね。もう1月の終わりぐらいですからね。

そうこうしているうちに、今思えばですが、元理事長の千葉先生から大学時代のサークルの友だちの所に、その方は桐朋女子中高の卒業生だったんですが、連絡がきた。そして桐朋小学校で人が急に足りなくなったので来ないかと誘われた。さらに誰か紹介してくれないかって言われて、ぼくに話があった。喜んで試験を受けに行ったんです。そしたらちょうど二人、女の人とぼくが採用試験に来ていました。担当の先生が、あなたたちは競争相手じゃないっていうんですよね。どういうことかなと思っていました。

つまり担任の先生と理科の先生が急遽お辞めになることになったらしいのです。もう2月です。新学期4月から動かないじゃないですか。急遽、理科と担任を募集されていて、そこに女性とぼくの二人が来たんです。ぼくも担任か理科かって試験で言われました。面接ですね(笑)。
本当困っていたようで。それで運よく桐朋小学校に来たという経緯です。

坂口:
元々、先生は小学校の先生を志望されていたんですか?

武藤先生:
そうですね。大学の2年ぐらいにもうなりたいと思って、大学に入る時は全然そういうことは考えていませんでした。大学時代に地域の子ども会、児童文学などをやるサークルに入っていて、それでやりたい気持ちになりました。
もともとぼくは、こういう都会の私立の学校に来るっていうことはぜんぜん考えていませんでした。大学時代の恩師に就職の報告に行ったんです。そうしたら、「桐朋に春夫はいない!」と言って怒られてしまって、自分の研究室に入って行かれたんです。

つまり、ぼく自身は農山村漁村とか僻地とかそういうところに行きたいと思っていたので、本当に生活に困っている、見放されている、そういうところの子どもたちと共に生活したいと願っていたし、先生もそう期待をされていたのです。
自分でも行くところがなくて、桐朋小学校に決まったことを恩師に報告に行ったら、「桐朋に春夫はいない!」と言われました。

坂口:
春夫君のことを教えていただけますか?

武藤先生:
春夫という子どもは、大学時代に農村で一緒に子ども会などやっていて、かなり貧しい農家の子ですよね。その当時3年生でした。
まだ、その家には馬がいて。場所は割と近いですよ、千葉県の成田の奥の方の農村地帯ですから。土地を持たない農民で、馬を持って何するかというと、山の木を伐り出して、あの歩荷(ボッカ:山を越えて物を運搬する人)と言うんですけれど、伐採した木を馬で引っ張って、その仕事で農賃をもらって暮らしているんですね。ぼくはその農村地帯で田植えとか農作業のお手伝いをしながら、農村調査などずっとしていたんです。

たぶん、桐朋にはそういう子どもたちはいないですよね。
日中は誰もいないし、一人で遊んでいるとか勉強する習慣もない。そういう子どもたちと何かをしたいと思っていたんです。

恩師には、「春夫はいない」の一言だけ残して入って行かれた。ぼくだって「よかったね」とか「頑張ってね」とか、言われると、当然期待しますよね。22歳の男が50歳過ぎの教授に「春夫はいないだろう」って言われて、バーンとドアを閉めて行っちゃったんです。
これじゃしょうがないなと思って、当時、学級通信「ありんこ」っていう3年学級の子どもたちの記録を、いっぱい書いてました。

一学期分の学級通信を見よう見まねで自分で二冊に製本して、恩師の研究室に持って行って、今こんなことしてますって、あらましを報告した。そしたら、「ありんこ」を手に取って見ておられて、ややあって「桐朋でもこういうことができるんだね」って言ってくださった。そう言ってくださって、とても嬉しかったことを覚えています。

その恩師は、ものを書くこと、まとめることが大事だと言っておられた。日本学術会議のメンバーで書記の役割をしておられて、必ず会議のまとめをされて、それをガリ版で切って、刷って、配っていた。書くことをとても大事にされていたみたいですね。その恩師にやっと許されたという想いがあったのです。

坂口:
そういう繋がりだったんですね。ありがとうございます。なんかじーんとしちゃいますね。
武藤先生は、その時の大学の先生の影響で、書くことがとっても好きなんですね。

武藤先生:
そんなことないです。ぼくはずうっと文章を書くのが億劫で、下手でね。だんだん変わっていきますが。
当時、大学4年で卒業論文を先生に持っていくじゃないですか、5~60枚の論文を作るのも大変で、内容は春夫たちと遊んだこととか、子どもの気持ちや生活の繋がりなどを綴っていて、なんだか卒業論文というよりも、農村ルポルタージュのような内容でした。

4Bの太い鉛筆で書いて、先生に持っていくんです。先生も宮沢賢治が好きでね。「武藤君は宮沢賢治が好きなのに、文章へただなあ」と言われてしまった(笑)
そんな、宮沢賢治が好きだから文章が上手いとかないよな、と思っていましたが(笑)
忘れられない、心に残る先生ですね。

坂口:
そうだったんですね(笑)
その先生は、武藤先生の人生の中でとても重要な方なんですね。

武藤先生:
そうですね。
そのほか影響を受けた方は多いですが、初めて受け持ってくださった小学校の先生は、すごく素晴らしい先生でした。昔は総代っていうのがありまして、当時クラスで64人いたんですが、「64人の友」というお別れの文集があったんですよ。4年三学期の終業式の時に先生が列のぼくの所に来て「武藤君、前に出なさい」と言われて。

ぼくはそんな出来のいい子じゃなかったんですけど、そしたら、成績が優秀だっていうことよりも、3学期の時にまとめの学習に入っていて、とても頑張っていたということらしい。当時、まだ昭和30年代初頭かな。その頃は新しい教育方法が入ってきて、例えば“助け合い学習”というのがありました。戦前であれば教員が生徒の前に立ち、一斉に授業して講義調で終わっていくでしょ?。
わからないところがあったら、助け合って、教えあっていく、そういう学習で努力したかららしい。

これも新教育の一つになるのかな。今でいうと総合的な学習というような教育内容かな。
例えばグループに分けて、お店屋さんに調べに行かせるんですよ。
お店で何がいくらで売ってるかとか、八百屋さんもあり、魚屋さんもあり、色んなお店にグループで行って、その商品を絵に描いたりする。それをお店に並べる。調査して社会科。その中でお釣りとか値段の計算で算数とか、生活単元学習というのかな、生活を題材にしながら教科学習をも興味深く教えていくことになる。後に生活べったり、と批判されますけどね。もっと教科の独自性をしっかり教えなければいけないと。

そういう新しい教育に取り組んだ担任のあとで、5年で分校から新しい学校に分かれていって、バリバリの男の先生が担任でした。母に保護者会のあとに、「うちのクラスに二人の総代がいて、武藤君もその一人。一人はちゃんとできるのに、武藤君で、案外ですね。」と言われて(笑)。
母も怒っていたし、ぼくもそういうこと言うんじゃないよと思ったんですね。幼心にも傷つきますよね(笑)。
そんなふうに反発して育ったということもあるんです。

まあ、中高といろいろありましたけども、自分の進路をなかなか自分で決められなかったんですね。残念ながら。
で、大学に行くんだけれども、何をしたいのだろうか自分でもわからなくて、結局途中で、やはりそういう農山村漁村の本当に困難な生活をおくっている家庭で育つ子どもたちと、共に生きたい、役立ちたいっていう想いになったんです。

だからまた話が戻ってしまいますが、そういうことを教えてくれたのが大学時代の先生のことは忘れられない。
どこの時代の先生も大事なんだけども、青年期っていうかな、おとなになっていく最初の時期にそういう本当に人間や、社会のことを知ろうとしているその時に、そういう先生に出会うって、とても大事なんだと思いました。
当時の先生には、ぼくはどう映っていたかは、もはや分かりませんけれど(笑)

<編集部よりお知らせ>
2018年6月9日-10日に秋葉原UDXビルで開催される<第3回 全国「山の日」フォーラム>において、6月9日(土)の第3部では、今回のゲスト武藤昭先生が登壇されまして、景信山集中登山を例に、「初等教育における自然体験学習」についてご講演をされます。
皆さまお誘いの上、是非、足をお運び頂けたらと思います。詳しい内容はこちらから

次回、後編を<6月20日>に掲載を予定しています。

こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,094名(2017年度3月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。

同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。

「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。