【Vol.11】桐朋との繋がり -古谷 一郎先生<前編>-

ゲスト    :古谷 一郎先生(以下、古谷先生)
インタビュアー:桐朋学園初等部同窓会 会長 坂口佐代子 (以下、坂口)

坂口:
先生、本日はよろしくお願いいたします。

古谷先生:
よろしくお願いいたします。

坂口:
最初の質問です。
先生と学校との繋がりは、どのようなきっかけがあったのでしょうか。
また、美ら桐朋についてお話をお聞きしたいです。

古谷先生:
私は九州出身なので、この桐朋学園をほとんど知らない状態でした。
で、私が大学を出てちょっとやりたいことがあったのですが、東洋医学とそれから武道の方を続けたいということで、一年間放浪し、世界一周することが学生時代にありました。その時にアメリカで出会った合気道の先生が鍼灸をやっていまして、で一旦戻って卒業してそれで鍼灸の学校は決まっていたんです。それは夜学なんですけど。昼間働きながらそれに行こうということで。
私は学芸大学出身ですから、子どもたちも好きでしたから学務課の方に行ったら、ちょうど桐朋小学校の全科の採用試験がありまして、昼間そこで働きながら夜学に行こうということで受けました。

それで採用試験を受けたところ、当時の校長の生江先生が、私が旅行してる時に出会った合気道の先生。その合気道の先生が、生江先生がその当時に心から師として慕っていた野口晴哉さんという野口整体の先生がいらっしゃいまして、その野口整体の話を合気道の先生から伺っていたんですね。生江先生に私は鍼灸をしながら「心と身体」のことに興味があるんですよ。とお話をしたところ、生江先生と野口晴哉さんのことをそんなに近しいと知らなくて、そうしましたらすごく興味を持たれましてね。

本当は小学校の全科なんですけれども、当時鈴木偉嗣先生がいらして、鈴木先生は中学からの出向という形で小学校に来ていてまして、またそれから中学校に戻るということで小学校の方の体育の専科に空きができていまして、ちょうど急に探さなきゃいけないっていうことで、生江先生から小学校の全科ではなくて体育の教員としてきてくれという風に言われましてね。それが3月25日か26日のギリギリだったと記憶しています。最初は3月の初旬頃に全科で受けておりまして、特別枠みたいな感じでね(笑)
後でまた呼び出されて、こういう事情で是非体育の専科でお願いしたいということでね。
それで来た時には、小学校半分と中学校半分という形で中学校の授業の6時間。小学校の授業の6時間。その流れで私は剣道をずっとやっていたものですから、剣道部の顧問もやっていまして。授業が終わり、剣道部を5時半から6時くらいまで指導して、早稲田にある鍼灸学校に2年半、毎日通いました。
しかし、鍼灸学校卒業間近に、その合気道の先生が病気にかかり、アメリカに行って弟子入りする話しはなくなりました。それで何故か、40年近くも桐朋にお世話になったんですね。
それで、私は全然知らなかったのですが、小学校・中学校と跨いでいた教員は私だけだったようですね。授業を持ちながらということでね、最初の三年間は訳もわからずそういう形でやりながら、小学校の職員会議と中学校の職員会議の両方に出ていたんですね。二股だったんですね(笑)

で、これは当たり前だと思っていたんですけれども、やっていくうちに自分は特殊な立場だとわかってきて、中学校の職員会議は出なくてもいいんじゃないかなということで、それ以降は小学校だけ。剣道部の顧問は12年間続けてきました。その当時小学校の体育は運動会がメインにあって、それに向けてのカリキュラムがあったんですね。前任者の鈴木先生が小学校の方に来たって理由は、小学校の体育カリキュラムが少し曖昧な状態だったので。で、ベースのカリキュラム作りするため6年間来て頂いていて、そのベースとしては運動会を中心にして運動会向けてそれぞれ学年でカリキュラムを作って、後半は別のことを作っていって、その半年半年のサイクルで作ろうというので、その時に今の美らの主催の市川先生が、講師で一年前に入られたんですね。実際市川先生は中高で元々専任をなされていて、ご結婚してお子さんが産まれてから、一回お辞めになられたんですね。それからお子さんが手を離れられるようになってから、小学校の方で、その運動会向けてということで踊りや器械運動をやらないといけないということで、講師が欲しいということで、市川先生が来られたんです。その1年後に鈴木先生との交代で私が来た。ということで、私が市川先生に出会ったということですね。

その時、私は器械運動中心にやっていましたので、2、3、4年生で器械運動をして、1、3、5年生が今は民舞中心になってますけども昔は表現運動って言って、ダンスだとかそれから手具運動をやっていたんですね。3年生だけに御神楽(みかぐら)があって、お辞めになられました野口先生が中高から小学校の教員になられて、その時に中高でやっていた御神楽を小学校に持ってきて、それで御神楽を始めて。そこが民舞の始まりなんですよ。

そこから、徐々にやっていくうちに器械運動はグラウンドで跳び箱やロングマットを敷いて行っていたんですね。最初の頃はそれが当たり前だと思ってやっていたんですけども、やっぱり器械運動は室内運動なんですよね。それで室内の空間と外の空間では全然違うですよね。あの砂混じりのグラウンドで子どもたちは裸足でやっていたのですから、そういう感覚の違いがあったりしてまだ私がやっていた頃は子どもたちの体力的な面では、まだまだ余裕があったんですけども、徐々に年齢子どもたちの体力が落ちてきて、それであの跳び箱を飛んだ時とか、怪我がいっぱい出てきたんですね、骨折するとか。
なので、ちょっとこれはまずいんじゃないかっていうことで、器械運動はベースにしながらも、大きな跳び箱とかマット運動を室内でやると同じような形でやるのではなくて、その大きな器具を使わないでベースにした、今の4年生がやっているような動きで、二人でペアを組んだりとかの内容にシフトを変えていったんですね。
で、その際に1、3、5年生の音楽に合わせた表現運動っていうところが、徐々に市川先生が東京民舞研というところに入って、桐朋に入ったからには何かをプロとして伝えなければならない。ってことで、そういう踊りも非常に有効な手段ではないってことで、そこでやってたのが日本各地の民族舞踊を直接習いに行って、伝統とかそういう空気を子どもたちに伝えるっていうことで、ちょうどムーブメントが起こり始める直前でしたね。日本の子ども達に日本の踊りを。っていうことで。実は戦後間もない頃は、日本の踊り“民族舞踊”というのは西洋音楽と比べられていて、文科省の方がちょっと下に見ていて、常に西洋一辺倒だったのですけども、ある先生達を中心に、やはりフォークダンスはその国の地元の民族舞踊だし、日本人にもそれぞれの土地に民族舞踊があるんだから、それをやっぱり子どもたちに伝える必要があるだろう。というところの動きの中での東京民舞研でもありまして、私もその後に市川先生に連れられて、民舞研に入ったんですけれども。

その民舞研の中で沖縄に行ったり北海道に行ったり、岩手に行ったり、夏休みに研修しながら行きました。私は器械運動だけだったので、市川先生から「あなたを踊りもやりなさいよ」とずっと言われてたんですよ(笑)
ただ、クラブもあって踊りもやっちゃうと体が持たないと思ってちょっと断っていたんですよ。
で、クラブの方でも小学校に専念する時期が来たなと思って、中学校の授業も減らしていって、小学校の授業を増やしていって、そして中高のクラブの方も、今から20年前なんですけど、17,8年ずっと剣道部の顧問をやっていたんですけど、それが一旦終わって。自分から宣言して小学校に専念します。ということで、そこから私が「踊り」を取り組み始めたんですよ。きっかけとしては市川先生がそろそろ退職なので、その後どうするかっていうことで、引き継がなきゃいけないと想いがありまして、市川先生と一緒に各地を回りながらやってきて、結局私が民舞にはまっちゃったんです。またその当時、私は“古武術”に興味を持っていまして、古武術の動きと民舞の動きがすごく共通点が多いことも一つの要因でした。

また、そのきっかけとなったのは、エイサーの園田青年会なんですね。
その当時の会長の伊波さんという方がいらっしゃいまして、私よりも15歳も年下なんですけども、すごい魅力的な青年で、本当にエイサーが大好きで、真摯に地元でエイサーに取り組んでいらっしゃって、エイサーを踊るだけでなくて、そこで青年会の自治活動をしながら、いろんなボランティア活動して、そしてすごい誇りを持って、自分たちの地元の踊りを踊ってるんですね。踊りもすごい迫力があって、後で知ったんですけれども、いろんな青年会がある沖縄の中でも、この園田青年会は沖縄でもトップクラスで、沖縄のエイサーを代表する青年会なんですね。全島エイサー祭りではいつもトリを務めるぐらいすごい青年会なんですね。
そこと出会いまして、その青年たちに男が男に惚れるっていうんですかね。そういう感じで入っていて、その踊りの素晴らしさを、そのエイサーを教えてもらいつつ、それと同時に岩手の方に行って、夏休みは沖縄と岩手に両方トンボ帰りしながら行っていたんですけれども。で、七頭舞の面白さも知って、その地元の人と接するということが、またなんでこの踊りを続けてるんだっていうところが、すごく伝わってくるのがありまして、これを是非やっていこうというところで、エイサーは最初私は教えてなかったんですけども、市川先生と一緒にエイサーを習いに行ったりして、好きでやっていたんですけど、いずれ引き継ぐことになるなと思っていましたから。

エイサーの前に市川先生は七頭舞をやっていたんですね。
5年生で七頭舞をやっていたんですけれども、非常に難しい踊りなので、たくさんの踊りを踊り込まないといけないから、運動会までの授業の時間では足らない。と、じゃあの運動会の発表時間を短くするっていう方針になったんですね。最初は15分以上踊っていたんですけれども、短くしてくれと。市川先生は短くしたのでは、七頭舞そのものの良さが薄れてくるから嫌だ。って言ったんですね(笑)

それで、一緒にやってたエイサーの方もありましたので取り組んでみようか、ということで、エイサーの方が動きとしては複雑さが少ないから、男の子にも高学年になってくると踊りを踊るとなると、男の子は恥ずかしがってね、私もそうだったんですけども、抵抗感があるんですよね。
でも、エイサーの太鼓を叩いて踊って、大声出しながらやるもんですから、基本は男性の踊りなんですよ。
なので、高学年の男の子にも合うんじゃないかってことでエイサーが始まったんですよ。それで七頭舞は終わったんですよ。

そしたら、5年生の子どもたちが低学年の時に七頭舞を見てて、「七頭舞がどうして終わったんだ」と訴えにきてね、七頭舞をやらしてくれというんで、まだ私は二頭舞しか踊れなくてね、まだ2~3年ぐらいしかやっていなかったので、だいたい5年以上掛けないと全部の踊りを太鼓も含めて、一通り覚えられないと言われていて、なので、子どもたちから突き上げがあって学年集会開いたんですよ。ちょうど中村さん(中村校長先生)が6年生の担任をしている時だったんですけど。子どもたちが自分の意見を、とにかくぶつける。自分が正しいと思う。それを学校としては受け止めてそれを真摯に考えて、ちゃんと子どもたちに納得いくように答えようって学校の方針ですから、そこで学年集会を開いて、私は現状を訴えたんですね。こういう理由で七頭舞からエイサーに変わったんだよ。市川先生は悪くなくて学校の方針でそうなったんだ。と説明したんですね。でもやらしてくれと言われてね。
実は私も習っているけれども、まだ二頭舞しか、太刀となぎなたしかできない。太鼓も叩けないんだよ。と
「でも、やりたい」と。みんなの気持ちはわかったけれども、私ができるのは今はここまでしかできないけども、頑張って太鼓を叩いてあとの踊りはまだ無理かもしんないけども、まずは復活させるときに二頭舞から三頭舞、四頭舞ぐらいまで頑張ってやるけども、それでいいか?っていうことで子どもたちに話をして、子どもたちもそれでいいということで始まりました。それから、6年生の器械運動もさっき話したように怪我が多くなってきたので、それをきっかけにして、マット・跳び箱運動から七頭舞に変わってきたんですね。それで5年・6年とエイサー・七頭舞という形が始まったんですね。

で、私も太鼓を全然叩いてなかったので、休み時間とか夏休みにかけて体育館で太鼓をバンバン叩いてね、かなり苦労しました。でも子どもたちは覚えが早いんですよ(笑)
大人はなかなか覚えられないんですね。自分が踊れないと太鼓を叩くだけじゃなくて、太鼓を踊りに合わせて叩かないといけないので、踊りを見ながら叩いているとブレちゃんうんですよ。それで声をかけながらやるから、非常に慣れないと、最初の頃は踊りながら太鼓を叩けるようになってきたんですけど、気になる子が居ると「そこは違うだろ」と言っていると、音がズレちゃってね(笑)
何度も繰り返しながら、やっと今では身体が自然に動くようになってね。やっぱり時間は掛かりますよね。そんなこんなで今に至っているという状態です

次回、後編を<10月20日>に掲載を予定しています。

こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,094名(2017年度3月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。

同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。

「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。