【Vol.39】桐朋との繋がり – 服部先生 前編-

ゲスト    :桐朋学園初等部 服部先生(以下、服部先生)
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)

 

髙田:
本日はよろしくお願いいたします。
まず、服部先生ご自身の桐朋との繋がりを教えていただきたいと思います。

服部先生:
桐朋に来る前は、横浜の小学校に居ました。桐朋小に採用されましたって、その学校の先生方に話したら、多くの人は「どこの学校?」っていう感じで、唯一わかったのは音楽の先生で「もしかしてそれって音楽の桐朋じゃない」って言って驚いていました。実はぼくも採用試験を受けるまでは知りませんでした。

桐朋に来たのが、1985年で、覚えやすい年なので、ちょうど再来年が2025年だから40年近くになります。あとは特によそで仕事をすることはなく、ここだけに勤めさせてもらって、30数年っていう感じですね。

髙田:
小学校に来た時の第一印象を教えてください。

服部先生:
桐朋小学校に来た第1印象ですか。廊下を走る子どもが多いとか、上履きの踵を踏んでる子が多いとか。始業式の日に、その頃はグラウンドでやっていて、近藤先生とぼくが紹介されたのですが。ぼくの第一声は「上履きの踵を踏んでいる人を見たら注意します」だったようです。

それで、同じ学年の先生は2人とも自分の両親ぐらいの大先輩の先生で伊藤先生と梅根先生でした。伊藤先生は「いいね、若い人で怖い先生ってのは」って言ってくれたのが印象的でした。若いはねっかえりでしたが、何となく包み込んでくれるように接してくださっていたことが、後になってそのありがたさが分かってきたように思いました。

もう1つは、先生に馴れ馴れしいというか、○○先とか○○ちゃんなんて先生を呼ぶ子どももいましたね。それにつながるかもしれないけど、自由奔放っていうか、個性豊かっていうか、よく言うと一人ひとりがその人らしさを持っている。それとそういうのを周りに出しやすい雰囲気があるクラスとか学校なんじゃないかなって印象でしたね。

髙田:
思い出に残っている出来事はありますか。

服部先生:
1980年代後半でしたから、正門の奥に木造の講堂がありました。入学式など行っていました。その講堂の天井裏に上っている人たちが、最初に担任したクラスの子どもたちにいて、それで何かいろんなものをそこに持っていって、昼休みとか放課後とか、そこで遊んでた人たちがいたっていうので、大騒ぎになったことがありましたね。

それから、合宿の消灯時間の攻防ですね。どういうふうに先生が回ると、子どもをうまく寝かすことができるか考えたり、試したり、静かに廊下を歩いて行って騒がしい部屋を急襲するとか。

このことでは、村田先生について子どもたちから聞いた話が印象的です。
彼らが言うには、村田先生が回ってくるとわかるって言うんですよ。それは、スリッパがパターンパターンって音を立てて歩いてくるから、すぐ村田先生が来た!って寝たふりをするというんです。パターンパターンって遠くから歩いてくる音がすると、それが扉越しに聞こえてくるとね、一瞬皆静かになっていて、時々ガラガラって開けてみると、みんな寝てるな。みたいな感じで。先生はパターンパターンって向こう行ってしまう。と言うふうなのが、自分も年齢と共に、そういうのもいいかなって思うようになったかな。

合宿じゃないけど、集中登山ってあったじゃないですか。
景信山に登るときに、高尾駅からバスに乗って、小仏峠の手前のバス亭で降りて、そこから登っていくと、右に行くと景信山で、まっすぐに行くと城山っていう山になるんですけど、3年生でしたが、ぼくが前を歩いて、一番後ろを千葉裕子先生が歩いてくれていたので、安心して歩いたんだけど、しばらく行ったら後ろから道違うんじゃないかなって言われて戻ったら、前を行ってる先輩の先生方が「どうしたんだ、どこ行ったのかと思った」と言われて、どうも右に行くところをまっすぐに行ってしまったようなことがありました。

その後、八ヶ岳の合宿で道に迷ったというような話を聞きましたが、山での道迷いって後から振り返ると、あんなところで?と言うのが多いようですね。

髙田:
昔はたくさん登山をした学校でしたね。

服部先生:
そうですよね。
コロナになる前は、春の遠足と秋の遠足というと高尾山とか陣馬山とか景信山とかあの辺の山に、学年に応じた距離ぐらいのところに登っていましたね。昨年くらいから徐々に再開していますね。

髙田:
そうですね。
八ヶ岳も、6年生の時に赤岳チャレンジして終わり。というのが私たちの時は定番でした。
行ける学年と行けない学年があって、私たちは行けずに終わりました。

服部先生:
赤岳って、天女山から登っていくんですよね。あそこから登っていくと、赤岳の手前って何ヶ所か鎖とか梯子があるんですよね。すごいチャレンジですね。

もうひとつ印象的っていうのは、もう行ってないけど柚木のグラウンドがあった頃に、プレイデーで行って5・6年生が1日そこで遊んでっていうふうなのが、結構それも印象的で、何か特別にその子どもたちも1年に1回しか行かないから、あんまりいろんな準備、必ずしもできなくてボールとかもってぐらいしかないけど、結構山ん中入って、歩き回ったりとか、一緒に面白く過ごせてたなっていうのがあって、何回目かに行ったときに、おたまじゃくしがたくさんいるのを覚えていて、それを持って帰ろうと思ったんですよ。

小川が真っ黒になるぐらいいるから、いくらでもすくえるわけですよ。それ持って帰ってきて教室で飼ったんだけど、教室でも飼いきれないほどだったから。みんなで分けて持ち帰ったこともありました。

もう一つは、プレイデーに行った時にタケノコをバキバキを折った子たちがいて、それがちょっとやそっとじゃない量で、それで担任の先生がすごく怒って、家に持って帰りなさい!って言われて、長いタケノコと電車に乗って家に持って帰った子どもたちが何人かいたんですが、もう食べられないんですよね。育ち過ぎた長いタケノコは。うちの人に事情を説明しなさいということだったようです。

髙田:
私もタケノコ掘りは覚えています。裏山みたいなところですよね。

服部先生:
そうそう。すごいですよね。本当にこんなにタケノコって生えるんだなって思いましたね。プライベートで家族とタケノコ堀に行ったこともありました。

次回、服部先生-後編-は<2023年12月1日>に予定しています。

こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
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