【Vol.55】桐朋との繋がり -18期 有泉 仁美さん 前編-

ゲスト    :桐朋学園初等部 18期 有泉 仁美様(以下、有泉さん)
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)

 

髙田:
今日は18期の有泉仁美さんに来ていただいて、お話をお伺いしたいと思います。
まず自己紹介をお願いいたします。

有泉さん:
昭和39年生まれです。還暦になりました。有泉仁美と申します。
小学校から高校までずっと桐朋で過ごさしていただいて、小学校の時は野球をしたくて、男の子に混じって野球をしていました。外で遊ぶのが大好きで、お誕生日にはスポーツ用具しか買ってもらわないような子どもでした。その流れで中学生になってソフトボール部に入り、もうその後は高校までずっとソフトボールをして、高校生でハワイ遠征や国体(今の国民スポーツ大会)で東京都の投手として参加し、JICA海外協力隊もソフトボールで中米グアテマラに行きました。

髙田:
協力隊の話は後でお伺いしたいと思いますが、まず小学校での思い出を教えてください

有泉さん:
いろいろありますけど、小学校に行くのが楽しくて、朝早くに行って、下校までずっと遊んで帰ってくるという毎日でした。親も忙しくてうっかりしていたのか、一度祝日に学校行っちゃったことがあって、誰もいない学校に。でももう1人間違えて男の子が来ていて遊んで帰ったことをよく覚えてますね。

髙田:
先生はいらしてなかったのですか。

有泉さん:
先生はいらっしゃってなかったかな。でも中に入れたときは用務員さんがいたのかな。その辺の記憶はよく覚えてないですが、それぐらい学校に行くもんだっていうか、半分遊びに行ってる感じの子どもでしたね。小学校では餅つきがあったり、栽培の時間があって、野菜収穫したり、お米農家を訪問して稲作の勉強をしたりしました。なんかそういう思い出はすごくたくさんあって、とにかく楽しかったですね。

髙田:
遊びはやっぱり野球だったんですか。

有泉さん:
そうですね。あらゆる遊びはしましたけど、まだ野球をする女の子があまりいない時代でしたが、グローブが欲しくて、小学校3年生か4年生の時にグローブが欲しいと母親に頼んで。当時担任だった遠藤先生に、母親が先生「うちの子がグローブ欲しいって言っているんですけど」と相談したら、先生が「いいんじゃないですか。」って言ってくださって。

そうやってね、自由に育ててくれたから、おかげさまで、ソフトボールに繋がって、そのまま協力隊っていう感じでしたね。遊び方は本当にいろんなことしていて、こんなこと今だから言えますけど、授業終わって下校の時間までの間に、実篤公園あたり(まだその頃公園にはなっていなかったと思います)に行ってチョロチョロして遊んだりしていました。

髙田:
私達もいきました。

有泉さん:
抜け出してね。なんか探検ごっこみたいな気分で遊んだりしてました。物心つく前から、ちょっと目を離すとドアを開けて出てっちゃう子どもだったらしく、母親は膝をガクガクさせながら探したことがあると言っていました。そういう性格(性質)もあって、あっちこっち顔突っ込んで、遊びに行ってみたいなこともありましたね。学校に行っているときにもね。

髙田:
私達は下校の後だったから怒られて、すぐ行けなくなりましたがすごく楽しかったです。

有泉さん:
わくわくしますよね。

髙田:
桐朋を卒業なさっても、ずっとソフトボールをされていたんですか。

有泉さん:
そうですね。
高校3年生の時は国体に選抜されたりして、まったく受験勉強をしていなかったので、卒業してすぐイギリスの語が学校に行って帰国後、やっとこさ大学に入って、学生のときはずっとソフト部のコーチをしていましたね。大学では国際関係学科に在籍していたので、大学の長い夏休み半分はバックパッカーして、あとの半分はソフトボール部の合宿とか遠征とかについていっていたので、家に3日ぐらいしかいなくて、1回母親にすごく怒られたことありました。

髙田:
バックパッカーでいろんな国を回られたのですか。

有泉さん:
そうですね。タイ、マレーシア、シンガポールとか歩いたり、オーストラリア行ったりとか、ヨーロッパ行って、そのままモロッコに渡ったりとかして歩いていましたね。大学生の頃は。

髙田:
印象に残っている出来事はありますか。

有泉さん:
スペイン バルセロナのグエル公園で、バックパッカーだから疲れて女子大生3人、ベンチで座って寝ていたんですよ。目をつぶっていたのですが、私たちの前で人の気配がして、なんか言っているなと聞いていたら、英語圏の人たちの団体ツアーだったようで、私達の前でツアーガイドらしき人が寝ている私たちを見て、「これがスペインのシエスタです。」って紹介されていまして。珍道中でしたね。

モロッコに渡った時は現地のお休みが終わる時期だったのか、出国の時、多くのモロッコ人がヨーロッパの仕事先に帰るのと重なり、船のチケット売り場前が大混雑で、なんとく集まった日本人同士でどうしようとなって。チケット販売窓口に整然と並ぶっていう習慣がない様子で、現地の男性が窓口に殺到していて、とてもチケットを買えそうもない状況だったのですが、日本人の男性がチケット窓口へ頑張って行ってくれてチケット入手してなんとか乗船した後は、疲れ切って甲板の上で集まった日本人が皆川の字になって寝て、ヨーロッパまで帰りました。

髙田:
なぜバックパッカをしようと思ったのですか。

有泉さん:
高校卒業後すぐにイギリスに居たことで、とにかくいろんなところを見てみたいけど、そんなにお金はないし。ということで何かきっかけがあったっていうか、自然にそうなっちゃったみたいな感じですね。

髙田:
印象に残っている国はありますか。

有泉さん:
やっぱりモロッコとか印象に残っていますね。タイに行った時に今はミャンマーになっているけど、当時まだ国名がビルマの頃で、学生運動とが激しくなっているときに国境まで行きましたね。入国しようかとも思いましたが危険もあるしで諦めました。チェンマイからチェーンライまで行って、そこから国境までバイクを借りて国境まで行ったんですけど、山の中民族色がすごく豊かな地域があって印象に残っています。その国境の地帯あたりは勝手に入れないように山中の道に遮断機が付いていて、そこが開いていたからバイクで入ったのですが、しばらく行くと警備兵のような人がいて怖くなってそこを出て街まで帰ったりなど、若気の至りというか、無知で怖いもの知らずでしたね。

髙田:
危ない目にあったことはありますか。

有泉さん:
意外とないんですよ。
物を盗まれたこともないですし、12年間暮らしたグァテマラでは何回か危ない場面にもあいましたが、守られてるのかと思うくらい。ここは危ないなっていうのが何となくわかるから、回避するっていうのは持っているみたいで。

もう10年以上前ですが、笹子トンネルの天井板落下事故があった日に、6年生の担任でご高齢になった佐久田先生を囲んで小学校のクラス会が予定されていて。その当時私は仕事で長野県駒ケ根市に住んでいたので、その日早朝に駒ヶ根を出て、笹子トンネルの前でトンネル内火災の表示が出ていたので危ない思って、1台だけ停車していたマイクロバスの後ろに止まっていたのですが、ラジオからトンネル内で事故があった状況が流れてきて母親が心配して電話をくれて…。同級生に到着が遅れることを連絡して…。まだレスキューも来ていなく、そのうち、サイレンが鳴りだしてトンネル内で放水が始まり・・・という状況でした。トンネル直前に止まっていたから、その場でUターンして高速道路を降りて何とかクラス会には合流できましたが、これ15~20分早かったら、私死んでたんだろうと思いました。その後は駒ヶ根から東京へ戻る車中トンネルに入ると、心の中で手を合わせて運転するようになりました。いろいろなことがあるなかで、「私はよくここまで生きてきたな」と思うと同時に「生きてるってことだけですごいな」と感じるようになりました。

次回、有泉仁美さん-後編-は<2025年6月1日>に予定しています。

こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
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同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。

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