【Vol.67】桐朋との繋がり -8期 山田 多佳子さん 前編-
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)

髙田:
今日は8期の山田多佳子さんに来ていただいて、お話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。
山田さん:
よろしくお願いします。
髙田:
まず自己紹介をお願いいたします。
山田さん:
幼稚園から高校までずっと桐朋でした。父が医者だったこともあり、東京女子医大に入学、卒業後は小児科に入局、3年目からは新生児医療を専門に10年位やった後、1991年に国立国際医療センターへ転職しました。国立国際医療センターはODAの医療協力分野で医師を派遣する所で、私はカンボジア、バングラデシュ、アフガニスタン等の国々で母子保健分野に関する人材育成を行っていました。
2002年、48歳の時に医療センターを辞めて、父がやっている医療法人研精会に入職して、デンマークイン新宿という老人保健施設の施設長を12年間やった後、60才で父の跡を継いで医療法人研精会の理事長になりました。
2024年、70才になる年に理事長を交代してもらい、稲城台病院の回復期リハビリテーション病棟の臨床医として患者さんを受け持っています。回復期リハビリテーション病棟というのは骨折や脳血管障害で急性期治療を終えた方が自宅へ戻るためにリハビリを行う所ですが、うちは精神科メインの医療法人なので、認知症高齢者や統合失調症の方々が多く入院しています。コロナ以降は自殺未遂による多発骨折後のリハビリ依頼が増えていて、中には10代の子ども達もいます。
髙田:
ありがとうございます。
赤ちゃんからご老人まで広く医学の知識をお持ちで色々なご経験があり、お聞きしたいことがたくさんありますが、まず桐朋小学校時代の思い出話をお聞かせいただけますか。
山田さん:
私は幼稚園が5期で、小学校は8期なのですが、5歳上の学年が幼稚園1期生で同級生は兄や姉が桐朋小学校にいる子が多かったと思う。私の姉も小学校2年生から桐朋だったので、妹というだけで入学させてもらったのだと思います。
小学校へは幼稚園からそのまま殆どの子が入学、クラスは東組と西組の2クラス、私は西組で鹿野先生が担任でした。当時、鹿野先生はまだ卒業されて間もない20代の先生で学校の裏にある独身寮に住んでいらっしゃいました。今では考えられないことでしょうが、同級生3人で休日に先生の寮に遊びに行ったことを覚えています。小学校の思い出としては作文の時間がたくさんあって、先生があの当時、ガリ版刷りで文集を必ず作ってくれていたことを思い出します。作文のテーマが「手について」という時があって、一生懸命、自分の手を見つめて、書いたりしていました。
あとはジャガイモやサツマイモを育てて観察日記を毎日書く理科の授業があって、私はその頃は几帳面だったので、毎日物差しで何センチ伸びたとか変化してゆくのを見るのが楽しかったですね。あと図工とかも好きでした。糸ノコで木をくりぬいたり、接着剤でくっつけてハガキ入れを作ったり、出来上がってゆくのが嬉しかったですね。近くの農家に行って牛の絵を写生したりして、かなりレトロですよね。
髙田:
どんなことで遊んでいましたか?
山田さん:
あの頃の校舎は教室からそのままグラウンドに出れるようになっていて、階段3段位下りるとすぐグラウンドだったから、休み時間になるとドッジボールだ三角ベースだって、場所取り合ってましたね。
あの校舎の作り自体がやっぱり生江先生の理念がこもっていたんでしょうね。あの頃は今よりずっと身軽だったから、鉄棒、渡り鉄棒とか自由にいろいろやってたなっていう感じですね。 高田先生の時代とは大分違いますかね。
髙田:
私が低学年の頃に職員室のあった古い校舎を立て替えたような気がします。
山田さん:
あ、なるほど。私たちが小学校6年の時に新しい校舎ができて、スチーム暖房になったけど、私たちの頃は冬はダルマストーブで。
髙田:
ストーブは一瞬だけあったような気がします。
山田さん:
煙突のあるダルマストーブが網で囲ってあって、朝の当番がダルマやかんに水を入れて、ストーブの上に載せてました。お湯が沸いてくるとシューって蒸気が出て、網の所にみんな濡れた手袋をかけて温めておくとか、やっぱり昭和ですよね。あとお弁当を温める機械とかもありましたね。
髙田:
その頃より八ヶ岳合宿はありましたか?
山田さん:
八ヶ岳は4、5、6年生で毎年行ってましたね。4年生は飯盛山登山で、6年生になったら三ツ頭山。
髙田:
それ同じです。
山田さん:
私は6年生の時、三ツ頭山に絶対行きたかったのに、当日、熱が出ちゃって登れなくて、結構悔しかったな。みんな行ってらっしゃいって感じで寮に残されて。
髙田:
飯盛山を超えていくんのですよね。
山田さん:
そう、卒業年度である6年生が行くことが恒例になっていました。4年生の時は飯盛山を登ればOKで、6年になったら行くぞって思ったのに残念だったなぁ。
高田:
そんな小学校時代を過ごしながら、お医者さんになろうと思ったのはいつぐらいだったのですか?
山田さん:
お医者さんになろうと思ったのは、やっぱりずっと父をそばで見ていたからだと思います。
小学校頃の私は優等生っぽい子だったから、父が見本だったんでしょうね。父は精神科医で、私は友達に気ちがい病院の子どもって言われたことがあったのですが、その言葉はうちでは使ったことがないので、別にそれが何か悪いことを言われてるというふうにも思っていませんでした。
物心ついた頃から病院の中で生活して、患者さん達に遊んでもらったり、運動会、盆踊り、何でも患者さん達と一緒にやっていたので。父は心の病気のお医者さんなんだと子どもながらに理解して、それはすごくいいことだと思ったから、体じゃなくて心を診るお医者さんになると小学校の時は素直に納得していたように思います。ですが、中学から高校時代は思春期になって、親への反発とか、いい子ちゃんぶってる自分への疑問だらけで、このまま医学部に行くのはまずいんじゃないかと思うようになりました。
あの頃の自分は北海道の牧場で馬の獣医さんになりたかったのですが、父に話すと人間の医者じゃなきゃダメと言われ、もう自分は引かれたラインを進むしかないと、高校1年の夏にバスケット部を辞めました。

高田:
精神科にはならずに小児科になったのはなぜですか。
山田さん:
そこはやっぱり最後の抵抗というのもあったと思います。
それと医学部5年の精神科の臨床実習の時に、担当した患者さんが医者の息子で、医学部受験に失敗して浪人中に発症されたような方で、私自身と並べて考えたのか、その時は何故か腹が立ってしまい、患者さんと喧嘩したことで、指導医から叱られ、精神科は私には向いてないんだ。患者と喧嘩するようじゃ確かにだめだ、精神科はやめようと思いました。小児科を選んだのは、学生時代に小児科のボランティアとして夏休みに糖尿病キャンプや癲癇キャンプに行き、そこで一人ひとりの子どもを丸ごと見ることが面白いと思い、臓器別に分かれた内科よりも小児科を選びました。
高田:
小児科から国際協力へ仕事を変えた理由は何ですか?
山田さん:
小児科2年目に、千葉市立病院の新生児科に1年間、国内留学させて頂き、新生児医療に興味を持ち、大学に戻った3年目からはずっと新生児室に勤務していました。
同じ頃に青年海外協力隊にも興味があり、説明会にも何度か行きましたが、医師として2~3年ではまだ海外では役に立たないと気づき、新生児医療を続けていました。1984年に女子医大に日本で初めての母子総合医療センターが開設され、生まれる前の胎児から分娩、新生児をセンターの新生児部門、母性部門が一緒にやることになり、そこで仁志田博司先生という日本の新生児医療の草分け的存在である先生の元で働くことになりました。
仁志田先生はアメリカで新生児専門医の資格をとった方で、人間的にもとても素晴らしい先生でした。私にとって仁志田先生と30歳で出会ったことが、その後の自分の生き方にとても大きく影響したと思います。
1987年から2年間、アメリカ留学する機会があり、場所はロサンゼルスだったのですが、生活の場となった小さなアパートにはメキシコ人とか韓国人とか、私を含めて外国人が多く、あらためて日本以外の国々の存在を肌で感じました。
世界の人口が急増する時代、その四分の三は途上国に暮らし、先進国に住む人は四分の一しかいないのに、世の中の富の四分の三を先進国に住む人が使い、残りの四分の一の富を途上国の人々が分け合って暮らしている。そうして色々、考えた時、自分が留学後に大学に戻って、教授や助教授を目指すより、死ぬ前にはもっといろんな人がいる国を見てみたいと思うようになりました。
仁志田先生は私の我儘とも言える転職を許して下さり、女子医大を退職して、1991年、37歳の時に国立国際医療センターに就職しました。
その後、10年間にバングラデシュ、カンボジア、アフガニスタン等の国々に行き、母子保健や新生児医療に携わることができたことは、自分にとって本当に良かったと思います。歴史や文化の異なる人々に出会い、一緒に働くことで私自身が気づかされたことがたくさんあります。
例えば私は昭和29年生まれなのですが、その頃に日本は病院分娩と自宅分娩が半々位で、私は父が勤務していた金沢大学の官舎で生まれたのですが、その頃の日本の乳児死亡率は私が国際協力を始めた頃のフィリピンと同じ位でした。
今でこそ、日本の乳児死亡率は出生1000人に対して1.7と世界1低いレベルで、それは私が勤務していた大学病院の新生児集中治療室のような専門性の高い施設や人材があってこそ成し遂げられたものですが、日本の新生児医療の歴史を振り返ると、人工呼吸器やモニター等がない時代に既に日本の乳児死亡率は出生1000人に対して20以下のレベルでした。
それは日本の教育レベル、特に女性の識字率が高く、衛生環境が整っていたからで、私がバングラデシュやカンボジアの人達に教えたことは、赤ちゃんが生まれたらすぐに乾いた布で体を拭いて低体温にしないこと、免疫成分の多い初乳を必ず与えること、お臍はきれいなハサミで切ること等、現地でもできることばかりでした。当時の国際協力分野では新生児医療は高額医療であり、もっと費用対効果の高い予防接種の普及に力を入れていました。
でも日本で行われていた基本的な新生児医療の3原則である保温、栄養、感染予防ができれば途上国でも赤ちゃんを死なせずに済むことがわかりました。
カンボジアに居る時には日本から供与された保育器はあるのですが、電気がなくて、保育器の中にお湯を入れたペットボトルを数本置いて、12時間毎にお湯を入れ替えたり、無呼吸発作を頻回に起こす未熟児の赤ちゃんに一晩中付きっ切りでいてくれる家族に、呼吸が止まったら、軽くお尻をポンポンしてあげてと私が教えたら、その通りにしてくれて助かった子がいました。3年後位にカンボジアでその親子にバッタリ会った時は感激しました。
髙田:
最先端医療も命を救うためにとても大事な研究医療ですが、根本的なことがあるからこそいきてくるものですね。
山田さん:
そうですね。自分が生まれた頃の日本と途上国は近いものがあると思うし、今、同じこの空の下、同じ地球の上で、こういう世界があって、彼らは彼らの文化の中で生きているっていうのが、私にとっては新鮮な学びだったし、やっぱり人間って面白いと思いました。
例えば、先天性の中枢神経系の奇形は日本でもどうしても助けることができず、家族もショックを受けるのですが、バングラデシュで無脳児が生まれた時、その家族はこの子も私の子どもだからって、抱っこしてうちに連れて帰ってくれました。日本でダウン症の赤ちゃんが生まれた時に夫の家族がうちの家系じゃないとか言い出して、母親が離婚されたケースがあったことを思うと、どっちが赤ちゃんにとって幸せなのかなと思ったりしました。
髙田:
そういう経験が今の山田先生につながってきてるのですね。
山田さん:
多分、私が日本の大学病院にずっといたら、すごく視野の狭い頭でかちの人間になっていたんじゃないかと思います。
私がカンボジアに派遣された時はポル・ポト時代が終わった直後で、あの時代にインテリジェンスのある医者達はほとんど殺されてしまったので、私は生き残った人達と一緒に仕事をしたわけですが、彼らはほとんど私と同世代で、全員がポル・ポト時代に家族を殺されたり、自分が死ぬ目にあったり、大変な思いをしていて、自分がもしこの国に生まれたらこうなってた。あるいはとっくに殺されていたかもしれないと思いました。だから本当に彼らの勇気や生きる意志の強さを尊敬する気持ちになったし、自分の視野が広がったように思います。

次回、山田多佳子さん-後編-は<2026年8月1日>に予定しています。
こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,928名(2026年4月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。
同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。
「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。

