【Vol.58】桐朋との繋がり – 30期 田村 一行さん 後編-

ゲスト    :桐朋学園初等部 30期 田村 一行様(以下、田村さん)
インタビュアー:桐朋初等部同窓会 会長 髙田紀世(以下、髙田)

 

田村一行さんとのインタビューの後編です。
前回のインタビュー<前編>はこちら

髙田:
小さい時からいろんな表現することに触れ合いながら舞踏家になろうと思ったきっかけはなんですか。

田村さん:
もともとお芝居は好きだったんだと思います。小学校の頃に母親に連れて行かれた劇団の舞台が面白かったというのもあったんですが、それでもまさか自分がやる側になるとは思ってもいなかったですけど。中学生の時に、父親が知り合いの劇団の芝居を見に行った時に持ち帰ったたくさんの折り込みチラシの中に、昔観たことのある役者さんのプロデュース公演のチラシが入っていて、それを見つけた母親が「観たい?」って聞いてきて、何故かその舞台を1人で観に行ったんです。僕、兄弟が3人いるんですけど、今思うと何で僕だったんですかね。それでその舞台がめちゃめちゃ面白かったんですね。それ以来一気に演劇が好きになってしまったんです。
それから舞台をいろいろと観に行くようになると、そのうちに段々と「自分もやってみたい」みたいな気持ちが芽生えてきて。でも、桐朋の男子部には演劇部がないんで外に出るしかなくて、中高生も受け入れてる劇団のワークショップとかに顔を出すようになっていったんです。

その頃、NHKで「劇場中継」という番組がたまに放送されていて、それも良く見ていたんですけど、ある時、今所属している大駱駝艦の公演が放送されてたんです。白塗りの裸の人たちが鎖につながれて、白目むきながらけいれんしたりしてものすごい衝撃を受けたんです。そんなある時、師匠となる麿赤兒の出演している演劇の舞台を偶然観ることがあって、とにかく怪物みたいなものすごい役者さんがいるなあと、これまた大変な衝撃を受けました。それからその役者さんとテレビで見た白塗りの麿さんっていうのがつながったんですね。その後、劇場で生で大駱駝艦を観に行った時は、たんなる「面白い」とか「衝撃を受けた」とかいう感覚とはまた少し違くて、もう「とにかく早くあっちの世界に行かねば!」、「あの世界こそが自分が生きる世界なんだ」っていうふうになって、大駱駝艦に入りたい、麿さんの元へ行きたいという思いが強くなっていったんです。
今はその感覚を少しだけ言語化できるような気がするのですが、ようするに舞台で踊っている時の自分の方が、本当の自分という感じなんですね。皆さんもそうだと思うんですけど、普段の生活の中では「田村一行」であるとか「日本人」であるとか「現代人」だとか、どんな時でも何モノかを演じなければならないです。「父親」である時もあれば「息子」である時もあるし、「舞踏家」として教壇に立ったり、子ども達と接することもある。常に、この現代の、日本の、人間の社会の中で何かしらの肩書きみたいなものをまとっているんだと思います。でも、大駱駝艦の舞台で踊っている時だけは、そういった肩書きが全部無くなって、本当にただの生命体というか、一つの生物として生きられる。一番本当の自分でいられる時間なんです。舞台を観て、何かそんなものを感じたんだと思います。


Photo by ©腰山大雅

髙田:
中学生の時に思った大駱駝艦に入りたいという、思いを胸に大学に入ったということですね。

田村さん:
そうですね。 もともとは高校を卒業してすぐに大駱駝艦に入りたかったんですけど、ほうぼうから「やはり大学には行きなよ」っていうような話になったんですね。
それでじゃあ大学はどこへ行こうかとなった時に、体っていうのは、もう大駱駝艦で学ぶつもりになってたんで、そうすると「やっぱ言葉かな」と。中高生の頃から戯曲を書いていて言葉に興味があったということもありますし、舞踏というのはものすごい言葉も大切にしているんです。それでいろいろと調べていたら日芸の文芸学科の先生の中に見たことのある名前を見つけて、調べたら、舞踏の伝説的な作品があるのですが、その再演を観に行った時にもらったパンフに載っていた初演評を書いた詩人の先生のお名前でした。「このような踊りをこんな言葉で表現するんだ」って、そこでもまた強烈なものを感じていたんですね。それならばと日芸の文芸学科に進学して、運よくその先生のゼミに入れたりもして、日芸では詩とか戯曲、小説、評論などいろんなことをたくさん書いて過ごしました。

髙田:
大学を卒業してから大駱駝艦に入ったのですか。

田村さん:
いや、もう在学中から門を叩いてしまいまして。
大駱駝艦でのはじめての仕事は後楽園遊園地のお化け屋敷のお化けでした。これ、言っていいのか分からないですけど、後楽園のお化けは一時期ずっと大駱駝艦のダンサーがやっていたんです。はじめて連れて行かれたお化け屋敷の楽屋で、いきなり「はい、白塗りして」となって、どう驚かすかのコツを聞いてからすぐに実戦でした。その日はとにかく必死に白目むいてけいれんしてましたね。でも、お化け屋敷では気配を消して人形のように固まったり、瞬時に動くために必要な緊張と緩和、間の取り方など、本当にたくさんの踊りの基礎が身についたと思っています。大駱駝艦の公演としては、97年5月の台湾公演がデビューでした。

髙田:
youtubeで少し拝見させて頂いて舞踏では言葉を使っていらっしゃらないと思うのですが、それでも言葉が大事なのですか。

田村さん:
そうですね、その身体の背景にあるものとか、そこがどういう世界かとか、どうやって身体が動かされていくのか、とかっていう感覚やイメージを伝えるためには、どうしてもいろいろな言葉が大切になってきます。踊りを作っていく上で大切な要素の一つですね。

髙田:
言葉を頭の中で刻みながら表現していくみたいな感じなんですか。

田村さん:
演出する時とかいろいろな言葉を駆使します。振り付けの作業の時は、言葉を飛び越えて動きだけをどんどん作っていくこともありますが、それでも群舞を揃えたり、動きのイメージを共有するためには抽象的なものも含めて言葉がとても重要になってきます。うまく踊れない時に、動きだけをいくら練習してもうまくいかなかったとしても、言葉一つでできるようになることもあるんです。例えば昔、“もっこ”をかついでただゆっくりと歩くようなシーンで、いくら歩いても上手く歩けない。そんな時に麿さんに、「『なんでこんなふうに働かなきゃいけねえんだ』と思っている労働者の影になってみろ」と言われて、その瞬間に風景が肉体にバッと入ってきて踊れるようになったりしたこともあります。「あ、歩いてるのは自分じゃないんだ」と気付いたりして、肉体に直結していく言葉ってあるんですよね。
ただの「もっと早く」とか、「遅く」とか、「ちょっとずれてる」とかっていう言葉なんかよりも、イメージを共有する方が上手くいくことがたくさんあります。例えば「ゆっくり歩く」という言葉よりも「まわりの空気がゼリーになっている」という言葉のほうが“ゆっくり”の質感が合ってきますし、「500歳の老婆が長い髪を地面に引き摺りながら、この世とあの世の狭間を永遠に向かって歩いている」とか言うと、また別の“ゆっくり”が生まれると思います。「その老婆の皮膚はガサガサで体は軽く、ちょっとした風が吹いただけでも倒れてしまいそうになる」と言えば、その一歩一歩に緊張感が生まれて、身体がまとう密度はもっと強くなるかも知れません。さらにその世界は暗いのか明るいのか、心地よい場所なのか不快な場所なのか、その風は暖かいのか冷たいのか、冷たいならばそれはどんな冷たさなのか、とかってどんどん突き詰めていくことで身体や動きや世界が出来上がっていくんです。もちろんこれは作舞方法の一例でしかないですが、こういうふうに言葉を使うこともありますので、作る側の時も踊る側の時も言葉はとても大切だと思っています。


Photo by ©腰山大雅

髙田:
確かに踊るほうも、そういういろんな言葉で伝えてくれるとイメージしやすいですね。

田村さん:
例えば、あるいたずらばかりする子どもの精霊の役を踊るとなって、「じゃあどう踊ろうか」ってなった時に、その子の背景には、例えばですけど母親に捨てられたとか、でも周りの子ども達からはとても好かれている、漁師からたくさん魚を盗むけどそれは他の孤児にあげている、そうしながら体はとっくの昔に無くなっているのにもう何百年も母親を探し続けている、とかっていろいろな要素があったとして、実際の人間もそうですけど、一人一人の身体にはいろんなことが詰まっていて、そういうことを背負っていくとやはり立ち方も変わりますよね。麿さんの言葉はもちろんそうですし、舞踏の創始者で麿さんの師匠である土方巽さんの言葉もまためちゃめちゃ強烈で面白いです。

髙田:
表現のお芝居というものをよく知らない人が見てて、何を表現しているんだろうと考えてしまうことがありますがずっと見てるとこんなことかな?と心に感じるものがあります。はっきりはわからないけど、なんかほんわかしたり、嬉しかったり、悲しかったり、怒りとかが伝わるので、舞踏の世界は面白いなと思うんです。その表現はどうのように作り上げていくのでしょうか?

田村さん:
「表現しない」っていうところはまず一つ大事だと思います。例えば月があって、その月を見て泣く人もいれば笑う人もいるし、オオカミに変身しちゃう人もいます。月自体は何も表現してないんですけど、見る人のその時の感情であるとか、状態とか状況、気持ちによって、全然見え方が変わってくると思います。花が咲いていて踏み潰しちゃう人もいれば、この花はなんて花かなとか、花弁は何枚あるのかなって調べる人もいますし、単純に綺麗だと思う人や、見て泣いたり、笑ったりなどいろいろだと思います。表現って、表現する側が「こうでしょう!」って押し付けるものじゃないと思うんですね。

最初から泣かそうとする意図が見え見えの演技とか、泣かそうとしてる踊りって、見てる側からすると「ちょっとやりすぎだな」って思ったり、「そんなに押し付けないでもらえます?」って、こっちは冷めた気分になってしまうことがあります。僕は「空っぽ」って言葉をいつも使うんですけど、表現者っていうのは、上手くやろうとか、褒められるようにやろうとかいう気持ちよりも、いかに「空っぽ」であるかが大事であって、そこに何を入れるか、そこで何を受け入れるかということが大切だと思っています。その「空っぽ」になることが一番難しくもあるんですが。
そもそも人間って空っぽだと思うんですよね。自己紹介しますという時に、田村一行ですとか、49歳です、日本人です、桐朋出身です、ダンサーです、男ですとか、そうやって人は自分にくっついている外側のことで自分を説明しようとします。でも、「名前なんてどうでもいいんです、あなたは何者ですか?」って言われたら、名前って外側で作られたものじゃないですか? そういう外側のものじゃなくて「あなたは何者ですか?」と。「49歳です」「いや、生きてきた時間なんて聞いてません。あなたは何者ですか?」、「日本人です」「国籍なんて関係ないんです。あなたは何者ですか?」ってなっていった時、人間ってそうやって自分の外側のことでしか自分を説明できないんです。言い換えれば、遺伝とか、時代、時間、文化、環境など、人間は全て周りのものに作られていると言えて、そういう外側の要因を全部取っ払って残った空白、それが自分だと思うんです。「私」を作っているのは「私」以外のあらゆるもので、私自身は空っぽで、外側こそ実体だと。これは大駱駝艦の踊りの、とても重要な考え方でもあるんですが。

生まれた時代や場所、環境、それこそ出身校が違うだけで、人間は全然違う人間になると思います。
感情だって外から作られますよね。おかしいことがあるから笑うし、悲しいことがあるから涙が出る。自分の子どもを怒る時、「パパ本当は怒りたくないんだよ!」って怒ることありますよね。ズルいですけど。表現者、特に舞踏家っていうのは空っぽであるべきであって、そこから何を表現させられていくかが大切で、何かを強く表現するものではないんだと思っています。
無理やり桐朋とつなげるわけじゃないですけど、完全な自由ってすごい不自由だと思うんです。「良い踊りを自由に踊ってください」とか言われると「は?」ってなりますよね。「良い踊りって何ですか?」って。ワークショップとかでも「表現は自由です! 好きなようにやってください!」とかで済まされたら「ふざけんな」ってなりますよね。決まったことがあるから自由があるんであって、その中での“自由になる方法”っていうのが大切なんだと思います。桐朋の自由の中で培われた、自分で言うと恥ずかしいですけど「素直な身体」というのが、この「空っぽ」になれる身体の基礎を作ってくれたんじゃないかと感謝しています。
さっきの「えんぶり」の話に戻りますけど、荒谷えんぶり組のある演目では、中学校にあがる前の女の子にしか踊らせない踊りというのがあって、それは何でかって言うと、“「どうやったら上手く踊れるか」っていうようなことを考える前の子に踊らす演目”ということなんですね。表現のとても深いところを語っているように感じます。表現っていうのはそういう空っぽであるところから始まって、受け取る側もまたそれを空っぽの状態で受け取って、そこでどう感じるかっていうことが面白いんだと思っています。

髙田:
受け取る側がそれを見てそれぞれの違う受け止め方をしてもいいということですね。

田村さん:
フィギュアスケートとか空手の型もそうかもしれないですけど、自分がすごい感動したものと、実際の順位とか評価が異なる場合ってありますよね。スポーツだからしょうがないんですけど、半回転足りないとか、ここが甘いとか。専門的なことは全然分からないので、こちらとしては「あー、そうなんだ」って自分の感動まで何か否定されたような気分になって寂しくなることがありますけど。芸術の場合はもっと好きに感じられるんで、もっと個人差が出てくると思います。見る側にはいろんな目線があるのが当然で、そこで大切なのは「どのように見るのが正解」ではなくて、いかに素直に見るか、自分はそこから何をどのように感じたかが大切だと思います。少なくとも僕たちの踊りを観た時なんかは。

髙田:
今後の公演予定はありますか。

田村さん:
6月の第1週に座・高円寺という劇場で僕の新作公演があります。7月は徳島で阿波の人形浄瑠璃を題材にした作品を発表して、8月は白馬で毎年恒例の大駱駝艦の夏合宿があります。国内外から30人以上のいろんな人たちが舞踏を学びに来て、最終日には野外公演も行います。それが終わったらすぐに狛江の駅前のエコルマホールで、公募した小学校3年生から高校3年生までの子ども達と作品を創作して発表するという舞台があります。9月は札幌で大駱駝艦の本公演があって、その後すぐに兵庫県の豊岡市に移動して、豊岡演劇祭で作品を上演します。豊岡では2018年から毎年、但馬地方を題材にした作品を豊岡の皆様と創作していて、これまでに10作品ほど創作してきました。今は「豊岡市民舞踏団 但馬鸛鵲楼(たじまかんじゃくろう)」というグループ名を付けて活動しています。

髙田:
地方に行ったら、地方の題材をもとに作っているんですか。

田村さん:
ありがたいことに、最近はいろいろなところから声をかけていただいて、その土地の風土や文化を題材に作品を創作するということが多くあります。その土地を歩いて、いろいろなものを見たり聞いたりして、そこから踊りをいただいていくという。それが今は自分のライフワークのようになっています。つい最近だと、豊岡はコウノトリの野生復帰を実現した場所なんですけど、そのコウノトリを題材に作品を作りました。題材をいろいろな角度から見たり、耳をかたむけて、豊岡の方々と作品を創作しています。豊岡は題材の宝庫で、毎回新しい題材と出会うのが楽しみなんです。

髙田:
それこそ民舞と同じだなと思いました。

田村さん:
そうなんですよ、原点はまさにそこなんだなって、いろいろな所へ行くたびに桐朋で七頭舞や御神楽を踊った時の感覚が思い出されます。これ、結構本当にです。究極的に言えば、各地に伝わるああいう踊りに触れながら旅をするだけで生きていくとか、そんな人生があったら素敵だと思います。そういう気持ちの原点は確実に桐朋なんですよね。

髙田:
桐朋小学校での原点が今のいろんな表現と結びついてるんだなということを今お話聞きながらすごく感じました。
もっともっとお話を聞きたいんですけど、最後に今の同窓生たちには何かお言葉をひとつついただければ。

田村さん:
49歳にもなると覚えていることっていくつかしかないんですけど、桐朋で過ごした一日一日の積み重ねが今の自分を作ったんだと思うと感慨深いです。ありきたりな話ですけど、どんな経験も無駄にはならないと思います。自分がそれまで興味のなかったものの中にこそ、学ぶことや新しい発見ってたくさんあると思います。それをどう受け止めるかは、やはり一人一人違くていいと思うんですが、僕のようにそういう体験が将来の生き方につながっていくこともあります。桐朋での体験、小学校での体験はいつかきっと何かしらの影響を自分に与えると思いますので、一つ一つの体験を素直に、大切に積み重ねていくといいのではないでしょうか。
去年、小学校を卒業して以来はじめて会った女子の友達が2~3人いたんですけど、会っていきなり普通に話し出せましたからね。40年近くの空白の時間が簡単に埋まってしまう。すごいことですよね。僕は遊ぶことしかできない大人になってしまいましたが、そういうふうになっても桐朋の仲間って、公演やったら駆けつけてくれたり応援してくれたり、やっぱりかけがえのない存在です。多分今皆さんの隣りの席で勉強している子が、40年後もいろいろと心開いて話せる友達なんですよね。ぜひその友達と楽しんで過ごしてください。そしていつか僕の踊りを見に来てください、ということで。

髙田:
公演もアップさせていただきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

田村さん:
ありがとうございました。

次回、卒業生のインタビュー記事は<2025年9月1日>に予定しています。

こちらのページでは、先生や卒業生の近況、また桐朋生にとって懐かしい方々を紹介いたします。
桐朋学園初等部同窓会は6,784名(2023年度3月時点)の会員から構成され、卒業生間の親睦と母校への貢献を目的に活発な活動をおこなっています。
卒業後も桐朋の教えをもつ仲間として、深い繋がりをもっていることが桐朋学園初等部同窓会の特徴です。

同期生同士の横の繋がりだけでなく、クラブ活動や課外活動等によって形成された先輩・後輩の縦の繋がりは、社会人になってからも大きな心の支えとなり、様々な場面で活かされ、その関係は一生のものとなっています。

「桐朋との繋がり」をきっかけに、更なる同窓生の交流が深まるよう、これから繋がりの深い方々を紹介していきます。